「あぐっ」 右の頬に、熱っぽい痺れと痛み。 大層情けない悲鳴を上げて、が望みもしない顔面タックルをかましたのは畳の床である。所々毛羽立った藺草から独特の匂いがするが、今はそれを心地よく感じている余裕もない。 鼻を打ち付けなかったのがせめてもの幸いだった、とでも言えば良いだろうか。しかしそれだって頬骨を襲った目眩混じりの激痛を誤摩化してくれるような幸運じゃあなかった。口の中がじんじん痺れて、痛い。 「ほんと色気ねえ声出すのな……。コイツ人の目とか気にした事あんの?」 「こら、無礼を言うなよ。そんなだから必要以上に嫌われるんだぞ」 声が、ふたつ。男の声だ。 やけにだぶって聞こえるが、とすると、どちらかが本物でどちらかが幻なのだろう。頭がまだ夢から抜けきらないらしく、正常な判断が出来ない。通常ありえないバイクの二人乗りにいつの間にやら意識が飛んで、ようやく今しがた失神から覚めたばかりなのだ。 は、今の自分に必要な何たるかをしっかり自覚している。休息の二文字だ。しかしそれが叶わない欲求である事も、同時に理解している。 「必要以上って何だよ。含みのある言い方すんじゃねえか、ああ?」 右の耳に、戯けと棘が混在した鋭い声が刺さった。表向きニッコリ笑いながら、でも同時に後ろ手で拳銃を握ってる、そんな雰囲気の声だ。 「そのままの意味だ。お前、進んで嫌われるような事ばかりするだろう」 左側から聞こえるのは、まるで同じようなのに少し堅い声質。教養をしっかり積んできました、中学時代は生徒会長です、という匂いがする。 どちらかと言えば―――どっちにしろ同じ人間の声に違いないのだけれども―――はこの生真面目な声の方に好感を持った。 あの恐ろしい債鬼がせめてこれくらい穏やかな喋り方をしてくれる人間なら、頬から畳に激突、なんて目は見なかったのに違いない。担がれている間は心底不快だったが、何の前触れもなく落とされてからはもっともっと嫌な気分を味わった。まるでどうでも良い消費物のような扱いだ。 「別にィ、嫌われてもこれからメロメロにしてやる予定だから良いんですぅ」 「気色悪い声出すともっと嫌われるんじゃないのか」 「ハゲてめぇぶっ殺すぞ」「やってみろ」 耳に届く声は相変わらずだぶっていて、おまけに会話まで交わしているような幻聴すら聞こえるけれど、でもどちらかが贋物だ。 (あいつがどっちかなんて)当然、頭の中で答えは出ている。 身悶えするような痛みを奥歯で噛み締め、は上半身を擡げた。未だに頭の奥がクラクラする。部屋を照らす電灯が酷く眩しい。 「こ、この…っ。よ、くも、落として……!!」 中華飯店店主なりの精一杯なガラの悪さで啖呵を切りかけて、しかし不意には眉を顰める。 コントラストのぼやけた視界に、人影が二つ。 覚束ない脳味噌の所為で見える錯覚じゃあなかった。どうやら実際、目の前に二人の男がいるようだ。一つは今や見慣れた債鬼の顔。もう一つは、どこか覚えのある坊主頭――― 「大丈夫か? 手荒な真似しか出来ない馬鹿ですまないな」 唖然としている内に、坊主から手を差し伸べられる。とれ、つかまれ、という意味らしいので大人しく掌を重ねると、静かな所作で引き上げられた。 細い、と呟く声が頭二つ分ほど上から降って来た。 「しかも随分軽いんだな。ちゃんと三食食べてるのか?」 「……そ、それなり…には」 「いくら生活苦だからって、飯に気を遣わないのは駄目だぞ。『体が資本』は、社会人の常識だからな。炭水化物と肉をよく食え」 子供に言いつけを与える母親そっくりの神妙な顔で、坊主頭の男が言う。なぜ彼はの経済面での事情まで知っているのだろうか。 (ていうか、あ、アレなタイミングで気遣われちゃった…な……) はっきり言うなら気勢を削がれた、だ。こう親身に心配され、その上栄養指南まで受けてしまっては、今更怒る気にもなれない。自分は今よほど愚鈍な顔をしているのだろうな、と片隅で考えながら、は曖昧に頷いたりエプロンの後ろで手をもじもじ動かしたりしていた。 親切な坊主の男は何だか酷く罰の悪そうな顔をして、ちらりと自分の隣を振り返った。目線の先にいるのは―――にとっては目を合わせる行為すら忌避される、男―――取り立て屋の金剛である。 先刻までは蹴りの一発もかましてやろうとまで思っていた相手なのに、今はもう数秒顔を突き合わせている事さえ出来ない。はぶるりと背中を震わせ、拳をきつく握りしめた。こうなっては、別の意味で怒る気になれなかった。 「礼を欠いたな…。本当に、すまないと思う。説明もなしに」 低い声でそう言うと、坊主は悲しげに頭を俯かせる。 「でも、頼むから誤解はしないでやってくれ」 「……はあ」何を誤解するなと頼まれているのかさえ分からないくせに、は一先ず適当な相槌を打っておいた。それでも坊主はやはり不安そうな目をしたまま、ゆっくり頭を振っている。 「こいつ、普段は女に対してここまで暴力的じゃないんだ。ただ今日は上がってると言うか、ハイになってると言うか、……おかしいんだ。色々。お前が近くにいるのに慣れてないからだと思う。さっさと元通りになってくれると良いんだが」 「……? それは、どういう」 (この人が暴力的なのはいつもの事じゃないのか) 取り残された気分で首を傾げている間に、ぐいと肩を引き寄せられた。 「雲水、どうでもいい事ベラベラ喋り過ぎ。お前も真に受けんなよ」 割り込んだのは金剛だ。いつもの余裕綽々な表情は何処へ置いて来たのか、分かりやすい不機嫌面をしている。 何気なく肩へ置かれた手に合点の行かない顔をしながらも、はおずおずと視線をずらし、金剛と、雲水と呼ばれた坊主頭の男とを見比べた。 この二人、言動は何から何まで対照的だが、背格好はそっくりなのが奇妙だ。定規で高さを測り取ったようにまるきり同じ位置に頭があって、服装も、ネクタイや腕時計から黒光りする靴まで、何処となく纏う雰囲気が似通っていた。金剛があの威嚇的に派手な服を着ているのは納得だが、坊主の彼までそれを着ているとまるで、彼も同族の取り立て屋のように見える。 張り付く視線に気付いたのか、坊主―――もとい雲水が、不思議そうに目を瞬かせると、を見返した。 (この人とは、目が合っても恐くない) ほとんど瓜二つの顔をしていると言うのに、どうして彼と債鬼とでは向かった時の気持ちに差があるんだろうか。やっぱり人徳の差かな、と考えては首を傾げる。 そうして二人ともわけの分からない顔をしたまま、暫くお互いに見つめ合った。放っておけばいつまでそうしていたか分からない。 が、こういう場面で横槍が入るのはほぼ必然の展開なのだ。 「……の娘、さあ。状況分かってる?」 苦虫を噛み潰したような声が聞こえて振り向くと、金剛の顔がすぐ近くにある。彼は威圧的な態度を隠しもせず、しかし恐ろしい事に、笑顔で立っていた。 は爪の先まで青くなる思いだった。何せその笑顔と来たら、ちっともにこやかな物には見えない。鉄の面に『爽やかな笑い』のパターンを塗り付けた、そんなふうな色合いなのだ。早い所を言えば、作り物と分からせる為にやっている、あてつけめいた完璧な笑顔だった。キャッチセールスなんかによくある種類のスマイルだが、あれよりもっとずっと整っていて酷い。 「じょ、状況って、」 拉致された、というこの現状の事を言っているのだろうか。肩を抱く力が痛いくらいに強まって、は自然と蒼顔になる。 「…身売りって言葉は知ってるよな。さすがのお前でも」 「し、四、五十年前はそーいう事も、あああった、み、みたいですね!」 さすがのお前でも、は金剛の口癖だ。 「さすがの」と「お前」の間にどんな形容詞が挿入されているのかは知らないが、はそれを聞く度にどうしてか侮辱を受けた気になる。彼はこの小さな飯店店主を酷く見下しているらしいのだ。 「四五十年前どころか今も続いてるぜ。お前が知らないだけ」 「へ、へえー……」 「借金のカタにーってあんだろ、娘売られるやつ。あれ結構マジなの。過激な店のソープ嬢とか何処で調達されるか、知ってる?」 「………ぜんぜん」 知らないに決まっている。ソープ嬢自体どこぞの何者なのか分からない。 なんとなくユザワヤだのシマムラだのダイマルだの、あの系列の子会社で働く売り子の姿を想像しては眉を寄せた。コンパニオンかバニーガールか、ああいったグラマラスな女性が就く類いの職業の話をしているのだろうか。 黙り込んでいる間、金剛はいやに上機嫌だ。 真剣に考え込むの顔を、底意地悪くニヤニヤしながら覗き込んだりする。世間知らずで学も教養もない少女が物珍しいのか、いや、きっと滑稽さを笑いたくて堪らないのに違いない。 彼は大きい何かを、喉元で押し殺したような顔をしていた。 豪華な箱入りのプレゼントを前にして、まだ開けちゃだめだよ、開けないでね、と言っている時の子供の顔そっくりだ。嫌な予感がする、とは思った。何の事はない、金剛の顔を見るといつものように沸いて出て来る直感的な悪寒だった。 「お前とゆっくり話してるといい加減こっちまでバカになりそうだからさ、もうハッキリ言ってやるよドナドナ……じゃなかった、の娘」 薄いサングラスの奥で、冷たい瞳が緩くカーブする。今度こそ本物の笑顔を拝めたはずなのに、不思議とは嬉しい気分がしなかった。 なにせそのすぐ後、彼の口から出て来た言葉と言ったら、まるで、 「お前、今日付けでうちの店に買われちゃったから」 → |