まるで、滅亡の予言だった。
 「うわあああああ――――っ!!!」
 布団を蹴り上げて上半身を起こすと、背中にびっしょり汗をかいていた。空気に触れた部分がヒヤリとして、あまり爽快感のない、寝汗の中でも所謂冷や汗という種類のものらしい。全身の意味不明な倦怠感も相まって、最悪の寝覚めだった。
 「ば、ば、バカ過ぎる……あんな、あ、ゆ、夢見て、わ、わたし」
 吃り過ぎて自分自身何を言いたいのかよく分からない。
 心なしか頭痛がする。腹痛もある。目眩も耳鳴りも断り無く、起きたばかりの頭へいっぺんに押し掛けて来て収拾のつかない有様だ。
 派手に息を切らしながら、は額を押さえて、時折ううとかぐうとか奇妙な唸り声を発した。目を閉じて耳を塞いで、そうする事で今しがた見て来た幻の内容が消えてなくなってくれれば良いと思った。思春期らしい甘い考えである。
 現実は、しかしそんな17歳の少女に少しの慈悲も許容もくれてやりはしなかった。瞼の裏の真っ暗がりでは夢の内容が延々と『ダイジェストでご覧頂きましょう』状態だし、指で蓋をした鼓膜の内側からは、あの決定的な一言が嫌がらせじみたエンドレスリピートで聴こえて来る。覚めてからが本当の悪夢だった。
 「こんなのどうかしてるっ……みんな、食われろ! バクに食われろ!」
 振り切るように、小さな握り拳を布団へ打ち付ける。細かい塵が朝陽の中に白々と立ち上って、部屋中ホコリの匂いで溢れ返った。
 債鬼のあの言葉が夢で、昨朝の出来事全てが夢で、その結末に不満があるわけではない。何にせよ、一晩きりの嫌な夢で済んで良かった。そう、良かったには良かったのだが、めでたしめでたしの一言で括ってしまうには、あまりにも納得が行かない、というだけの話だ。
 リアルな夢だった。夢か現実か途中で分からなくなるほど、「らしい」夢を見ていた。何かとてつもない災難の予兆だろうか。
 不意に、クシャミが出る。垂れなかった鼻に感謝しながら、はふと、身を取り囲むその異様な肌寒さに気付いた。訝しんで見れば、服がない。
 (…………。パジャマどこ行った)
 起きがけに素っ裸、とはまさかのシチュエーションである。上半身は勿論下半身も、靴下や下着すら失せている。
 寝ぼけて脱ぎ散らかしたのかもしれない、と到底有り得なそうもない可能性に縋って辺りを見渡してみるが、白のシャツも黒のスウェットも見つからない。
 それどころか、殊更重大な事実に気付いた。
 (箪笥、ない。目覚まし時計も。じいちゃんの遺影も)
 (なんだこれ……寝てる間に、模様替えされた?)いや、違う。部屋の構造その物がおかしい。金持ちがやるような大掛かりなリフォームをしたって、一晩でこうはらない。なり得るはずがないのだ。
 (ってことは、もしかして―――)
 この場合、もしかせずとも最悪の事態には違いない。の顔に冷汗が浮かぶ。
 「さっきからお前の声うるっさいんだけど。…つーかまだ着替えてねえの?」
 ガラリ、と正面の引き戸が開いて、例の債鬼がお目見えした。
 「………夢じゃ、なかったんだ」
 「ハア?」
 (ありえない。ダメだ。何の違和感もなくこの人が部屋に…)
 目眩のする思いで、緩やかに顔を擡げる。
 仰ぎ見た先に鬼がいた。金剛が、いた。腹の立つほど余裕をかました半眼はいつも通りだが、今日はそれを暗黒色のレンズで覆っていない。だからは、自身を睨めつける気怠げな二つの目を普段より余計にはっきりと視認する事が出来る。こんな熊よりも恐ろしい相手とガンの飛ばし合いなど、正直、土下座してでも御免被りたい所だ。
 「…って、それよか服!」「ああ?」
 「私の服がなくなったんです、どこ行ったか知りませんか!」
 食らいつくような語勢で叫びつつ、手ではしっかりと布団を抱き寄せた。剥き出しの上半身に債鬼の冷たい視線が突き刺さって、は赤くなれば良いのか青くなれば良いのかいまいち判断をつけかねた。
 人前で布団一枚上下素っ裸なんて状況が恥ずかしくて堪らないのは確かだし、でもまたあんなふうな―――思い出すのも、いい加減嫌になる―――恐ろしい宣告を受けたらと思うと今すぐ頭をぶつけて死にたいような気分になる。
 最低の悪夢は、単なる悪夢じゃあ終わらなかったのだ。
 これ以上何が起きたって、不思議な事はない。
 「お前、まだあんなの着たかったんだ? 貧乏クサイ根性してんのな」
 (び、びんぼうくさい……)
 赤貧の自覚はあったが、くさいがつくほど貧乏ったらしい性根をしていたとは思わなかった。心底呆れ顔の金剛に、は思わず目を伏せる。
 この男の人を見下した喋り方(に限定されているのかもしれないが、)は最早一個の癖のような物らしいので、改めて注意する気も起こらない。
 「あのボロいエプロンがお気に入りなわけ」
 「そ、そりゃ、まあ。毎日着るものだし。大事な商売道具だから」
 ふうん。あんな薄汚いのがね。
 冷めた声が、静かに相槌を打つ。今朝の金剛はどうもご機嫌斜めのようだ。
 「まあ何でも良いけど。あれ、ラーメン臭いから捨てたぜ」
 「な。す、捨てたあ!?」「文句でもあんの」
 事も無げに言われて、息が詰まる。
 文句があるとか、ないとか、そういう問題ではない。
 「じゃ、あ、あんた、私の……っ、み、見たんですか……!!」
 「……なに言いたいのか分かんないんだけど」
 日本語喋れば、と馬鹿にした様子で阿含が眉を顰める。
 は必死に訴えを試みながら、しどろもどろのまま、しかし結局はうやむやのまま言葉を飲み込んでしまった。
 この債鬼を相手に正当な抗議を垂れてみた所で通じない事くらい、初めから分かっていても良さそうなものだった。非常識の権化、歩く傍若無人と評されるような男なのだ。
 (この人に良識なんて期待するんじゃなかったよ!)
 「エ、エプロン、取りに行って来ます。ゴミ捨て場ってどこに」
 「無駄。今朝収集のおっさんに拾われてった」
 「……………」
 「なんだよそのアホ面。エプロンごときでそこまで悔しがる事ねえだろ」
 失礼な一言と共に、金剛が投げ渡したのは褐色の服の束だった。
 どうやらそこそこに上等な衣類らしい。には中華料理の善し悪しの外に物の価値というものは分からないが、安物を渡された気はしなかった。布地はムラなく滑らかな、心地よい感触をしている。
 「それ以外に服ねえから、お前。さっさと着替えて来いよ」
 言うが早いか、金剛は颯爽と踵を返す。素っ裸のを内側に残してピシャンと引き戸が閉じられ、白い小部屋に再び元の静寂が訪れた。
 (……着なきゃ、一日マッパってこと?)
 強制人身売買に加え、あんまりな仕打ちだ。一体自分はあの人に何をしたのだろうと、は泣き出したい気持ちで考えた。借金の滞納にそこまで腹を立てていたのか、それとも店で手を振り払ったのが気に触ったのか。一千万未納はの非に違いないけれども、だからってここまでする必要はないはずだ。
 (冗談きついよ。あの人、なに考えてるのか全然分かんないんだ)
 ここまで無遠慮に常識を覆されるといっそ涙も出て来ない。
 自分の意志と関係ない場所で売られたり、買われたり、失神したり、脱がされたり―――この先十年分の災厄が今日のひと時に押し寄せたみたいだ。
 腕に抱いた衣類へ顔を埋めて、は深々と息を吐いた。明るい褐色の布地からは、まだ真新しい糊の匂いがしている。