指先を離れた紙片は、重力に従うまま落下して行く。
 間もなく地面につくのだろう。
 (………今日を、待ってた。ずっと)
 それまで石像のような仏頂面をしていた阿含が、この時だけははっきりと意志を持って口角を歪めた。はっきりと、しているにも関わらず嘲笑とも同情ともつかない曖昧さを漂わせた笑みだ。慈悲もなければ温情もない。
 初冬の穏やかな空気さえ凍り付かせるような笑顔の形だけがある。
 「お前ってさあ、バカ?」
 そうして高らかな靴音と共に、踏みにじったのは一枚の罫紙だ。
 ああああっと慌てた悲鳴を上げて、がリノリウムの床に這い蹲る。業務用エプロンに彼女の絶望が反映されたかのような翳りある皺が寄るのを眺めて、阿含はまたいつになく弾んだ心持ちになった。
 (最高に滑稽じゃねえか。飯店、十一代目料理長?)
 ―――飯店、と言えば知らない地元民はいない。
 老若男女幅広い層に親しまれ、小さいながらも昭和の中期から地味に生きながらえている老舗である。十五畳ないし十四畳程度の狭い店内は、いつも昼時になると常連客でごった返す。店を包む和やかさと、一子相伝で受け継がれて来た秘伝のスープが人気の源だ。
 衰えを感じた先代が隠居を決めたのが、昨年の冬。弟子であり孫娘のに店を引き継がせたのは年明けだった。古い顔見知りの客たちや、面倒見の良い店員たちの後ろ盾もあって、経営は順調に行っていた。そこそこの蓄えもあった。上手く行くと誰もが信じて疑わなかった。
 しかし、人生もそう上手い話ばかりではない。ところがどっこい、と言いたくなるような展開が家の行く手を阻む。
 その年の秋、経営担当として雇っていたマネージメントの男が店の金をつぎ込んでの株取引を始め、そのうえ大損を被ったのである。横領が発覚したのは男が行方をくらませたすぐ後だった。先代はショックに倒れ、そのまま息を引き取った。残されたのは莫大な赤字に、意気消沈した四人の従業員だ。
 は悩んだ。悩んで悩んで、悩む間にも店は傾き、歯止めが利かなくなって来た。先代が継いだ店をたたむわけには行かない。店の人間を路頭に迷わせる事も出来ない。
 苦悩を噛み締めた末に、彼女は決断を下した。
 借金、というある意味では究極の決断だ。それが結局、彼女自身を袋小路の死地へと追い込む原因となったわけだけれども。
 (まさしく昼ドラ的展開ってやつ?)
 考えながら革靴を踏みならす阿含の顔は、もう元の冷徹さを取り戻していた。彼は窮地のに大金を貸し付けた張本人であり、同時にその金の取り立て屋でもある。
 貸す金額は大きいが、月利も半端な物ではない―――金剛の取り立ては厳しい上に暴力的で際限がなく、目を付けられたら地獄行き。消費者金融界では広く知られた噂だ。
 (俺に捕まっちまったのが運のツキだと思え、料理長)
 ぐしゃり、ぐしゃりと角度を変えて、阿含は靴底で幾度も紙をすり潰した。
 「価値ねえんだよ。こんな紙っきれ」
 その紙っきれとやらは、世間一般に嘆願書と呼ばれている。
 まさにが心からの嘆願を篭めて作った文書なのだが、ややこしい大人の事情が気持ち一つでどうにかなるなら、今の日本に破産などという手続きは存在しないだろう。
 彼女は人生に対して、楽観視とは違うが、少し甘い見方をしている部分がある。まだ17歳を迎えたばかりのお子様なのだ。
 「あっ、だ、だめ……だめだ、やめて!」
 の顔に俄な青みが増した。原形を失って行く紙を救出しようと、往生際悪く手を伸ばすも、叶わない。細い五指が空しく宙を掴むだけだ。
 (そういう台詞はもっと別の状況で聞きてえんだけど)懇願にまるで見当違いな感想を抱きながら、阿含は残骸となった罫紙を爪先で振り払った。魂の抜けたような顔でがそれを見ている。
 「なあ、俺も本題入りてぇし。そろそろ起きろよ」
 「…………」
 「…の娘はそうやって地べたに這い蹲ってるのが好きなわけ?」
 返事はない。ハ、と蔑如の嘆息を漏らして阿含は腰を屈めた。
 生気のない少女を引き起こすのは、書面一枚を踏みにじるのとさして変わらず容易い作業だった。くたびれた白いカッターシャツの襟に指を入れる。下方から全身をサルベージするのに、そう力はいらない。よろめいて立ち上がった所を素早く捕らえて、肩に手を回せば完了だ。
 (鶏ガラかよ、こいつ。飯屋ならもっと食えっつの)
 シニカルに阿含が眉を上げる。は押し黙ったままだ。厳重な拘束と言うよりは、体格差が大きい所為でほとんど抱きしめるような格好になっていた。
 奇観、と形容しても良いかもしれない。かたやラーメン屋の娘、かたや債鬼の取り立て屋。に過保護な店の人間たちが見れば即通報は間違いないが、生憎と今日は定休日だ。二人の他は全く無人の店内である。
 「……今日までに、耳揃えて30万のお約束」
 語調と不似合いな低音で、阿含。言葉をそこで切ったのは、懐から取り出した書面を見せつける為だ。(高校中退のバカでも、ここに並んだ丸の数が見えないわけじゃねえだろ)至近距離の少女に、そう目配せする。答えの代わりにごくりと喉を鳴らす音が聞こえて、尚更気分が高揚した。全ての歯車が自分の為に回っている、そんな感覚だ。
 「払えなかったら……分かってるよなあ、の娘?」
 わざとらしく粘ついた物言いに、の首筋がびりびりと総毛立つ。
 彼女の内側にあるのが後悔の念なのか罵倒の言葉なのか、阿含には知れない。半々だろうなと予想はしたが、実際、真相の如何など構わなかった。これから万事が思うままになる。
 「っ、それは、その。来週までにはきっと何とかしますから!」
 「先週も先々週も同じの聞いた」
 誇張ではない。この返済の見込めない客を相手に、阿含はもう三週間近くも待ってやっている。普段なら半殺しにしてでも捻出させる所だが、今回はそれをしないと決めていた。勿論やさしさから、などという生温い理由からではない。それなりの動機あっての『厚意』というやつだ。
 うぐぐぐ…と奇妙に長い唸りを出してが俯く。眉間に滲んだ影は深かった。
 「あ、あなたの親切はすごく有難いと思ってます。だけど、今は本当に店が苦しくて……いっぱいいっぱいで……」
 「じゃあやめれば。こんなボロっちい店売っちまえよ」
 「な、――ぼ、ボロっ!?」はひっくり返った声を上げた。
 白んだ顔が、途端に血の気を帯びて赤らむ。
 (実際ボロ屋だろ。俺のとこ来ればもっと楽させてやるのに)阿含は口を開きかけ、しかし追い打ちをかけるには至らなかった。
 ばしん、と勢い良く腕を振り払われた。
 驚いて、見れば、ブラウンの瞳が怒りを孕んで震えている。憤然とした面持ちでは数歩あとずさった。
 「ここは、祖父がくれた大事な店です! 売るなんてぜったい出来ない!」
 声が少し上擦って荒いのは、興奮の所為に違いない。熱くなりやすい性質なのだろうか。険しい視線に睨みつけられて、阿含はほんの少し閉口する。
 いつも馬鹿のようにへらへらしているくせに、店を侮辱されればこんな表情もするのだ。別段気圧されたわけでもないけれども、何となく意外な物を見た気分だった。
 ふうん、と無感動に鼻を鳴らした。
 「金は払えない。店も売りたくない。それ意味分かって言ってんの」
 「い、意味って、」「分かんない?」
 「……う」
 歯切れの悪い声に含まれているのは困惑だ。
 理解のない顔を見下ろし、阿含は僅かに眦を細めた。このおつむの弱い料理長はもう少し人を疑う事を知るべきだと思うが、何にしろ自分から墓穴を掘ってくれたのは幸いだ。罠を巡らせて誘導する手間が省けた。
 「下手に出ればほんっと腹の立つワガママ言うよなー。俺がここまで他人にやさしくしてやったの、初めてだぜマジで」
 にこにこと、そこだけ見れば人好きのする爽やかな笑顔で阿含が微笑む。空色のエプロンを引っ掛けたに一歩、大きな歩幅で近づいた。その無邪気な微笑が上辺だけの物と気付いて、の踵がざざざと後退する。
 「でもいいや。今日で全部清算するし」
 「な、な。なん、ですか」
 阿含が近寄ると、が逃げる。が逃げれば、阿含が近寄る。
 ゲームじみた一進一退の末に、小さな背中が行き着いたのはカウンターだ。狭苦しい調理場をバックに回し、が立ち止まる。とうとう物理的にも心理的にも逃げ場がなくなったと気付いて、少女の首は青ざめた。袋のネズミだな、と囁いて阿含の薄暗い笑みが深くなる。
 「清算って、あッ……も、もしかして人体売買!? やめてください私心臓弱いですよ、売ったってお金にならないですよ!」
 「ちげーって。そんなグロイ商売するかよ」
 (ま、似たようなモンだけど)それを口に出して行ったのかは分からない。考えるより先に、もう身体が動いていたのだ。
 肉の薄い貧相なウエストに手をかけると、阿含は、無造作にその痩せ身を担ぎ上げた。二の腕にの腹、掌に蝶結びになったエプロンの端が触れる、丁度米俵を担ぐようなやり方だ。
 「な、なにす…、ぎゃ……ぎゃああああぁああッ!?」
 「女がギャーとか吠えんなよ。あんま騒ぐと振り落とすぞ」
 「それもやだあああ!」「じゃあ黙れ」
 粗暴な口調とは裏腹に、阿含の顔には微かな喜色が覗いている。何も知らないはギャアギャア声を張り上げて、ただ猛獣の子のように喚くばかりだ。喧しいが、不愉快ではない。旅行の前の、変に浮かれた心持ちと似ている。大した理由もなく足裏が弾むのだ。
 「どこにっ、どこに連れてくつもりなんですか―――!」
 「着いたら分かるぜ。イイトコ」
 飯店の狭い戸口を蹴り開け、路上駐車したバイクに跨がる。
 明け方とは言え、表通りには仕出しや掃除に勤しむ人影がちらほら見受けられた。阿含は、しかし、そういった周囲の目を気にするタチではない。と言うよりも、今更気にかける必要がないのだ。
 『さんとこのちゃんが金剛のとこへ、借金の肩代わりに連れて行かれる』という噂は今夏頃から、暗黙の内にこの商店街全体へ浸透していた。
 (この様子じゃ、本人知らなかったみてーだけどな)
 背後でじたばたする少女を軽くどついて、バイクを発進させる。
 途中、八百屋の店主や出前人の青年などと目が合ったが、止めようとする者は一人としていなかった。誰もがの行く末を哀れむように首を振るばかりで、後は見て見ぬふりをする。「金剛」という名を聞くだけで、彼等の戦意は根から萎えたも同然だった。
 「佐藤さん、カズちゃん、金田の女将さああーん! だれかああぁっ!」
 既に遠くなった商店街へ向けて、が喉を嗄らして叫んでいる。
 その絶叫は、最早誰の耳にも届かないだろう。かわいそうなの娘。今まさに売られようとしている、ドナドナ。引かれて行く子牛だ。
 (あー。久々に良い買い物したわ)
 早朝の身を切るような寒気を飲み込んで、阿含はふっと頬を緩ませる。
 思い起こせば、長き苦難の道程だった。が借金を背負い始め、その重さに耐えきれずどん詰まりにはまり込むまで、よく気が違わなかったものだと思う。1年と4ヶ月かけた片思いだ。加えて言うなら、が滞納している分の1000万円もかかっているが、人ひとり買う為の値段だと思えば安い物だった。
 掃いて捨てるほどある金の中から、たったひと掴みの1000万。それだけで、が1匹、合法的に手に入ったのだ。これをお買い得と言わずして何と言うのだろう。
 「な、内臓とられるっ……だれか、だれかたすけてええぇ……!」
 「お前ちょっと黙れ」
 の湿った呻き声をいなして大きく右にハンドルを切る。
 この寂れた路地を二分も行けば、目的地の赤い暖簾が見えて来るはずだった。