呆気だとか遺憾だとか義憤だとかに混じって、一つの感情が着実に伸びつつある。諦観という名前が一番しっくり来るかもしれない。
 「お前な……今回のはさすがに人格疑うぞ」
 「なにそれ、今更」
 虚脱を伴う溜め息を吐いて、雲水は肩を落とす。十年来の理解があるとは言え、弟の減らず口に対する辟易は少しだって揺るがない。
 (こいつに性善説を期待するのはやめよう。今日でもう本当にやめよう)
 処刑寸前の一休を救ったのがもう三時間前、に夕餉を与えて就寝を促したのが一時間と半前、阿含を座らせて説教を始めてかれこれ二十分になるはずだが、反省の気配は一向に見られない。
 「一休に謝れよ。お前の勘違いで死にかけたなんて酷過ぎる」
 正論を言った所で相手に届かない事は知っている。
 この魔物の更生(せめて外面だけでも)が兄として果たさなければならない天命だという事も知っている。無論、投げ出せるものなら今すぐ放り投げたい、というのが本音だ。
 「五割はあいつが悪いんだから痛み分けだろ」
 兄の気持ちを汲んでか、阿含が楽しむようにうそぶいた。
 「お前は全く痛い思いしてないだろう。馬鹿言ってると殴るぞ」
 麺打ち用の竹を取りに行きたい衝動を殺し、右の拳を硬くする。弟は歯を見せて笑うばかりで相手にしない。
 「武力制裁? 当てる自信あるならご自由にどーぞ」
 「……阿含、反省する気あるか」
 「ないけど」
 「…………」
 予想していた答えだからショックが小さくて済むとか、そういう問題じゃない。
 「あっどうしたのオニーチャン、泣かないで。生きてりゃ良い事あるから」
 「泣いてない。己の弟の不義に少し死にたくなっただけだ」
 沈痛に目頭を押さえて呻く。
 呪詛めいた低い声音を振り絞り、もういいと切り捨てた。
 「一休の詫びは俺が行ってやる。にはお前が謝り倒して来い」
 「あいつに?」
 「お前が乱入した時かなりビビってたぞ。トラウマになったらどうする」
 「割と困る」「そうだろう。行って来い」
 これには阿含も反対しなかった。
 了解の声と共に立ち上がると、軽い足取りで部屋の出口へ向かって行く。ドアを開ける直前で、ふと何事か気付いたふうに足が止まった。にやりと口角を上げた笑顔が振り向く。
 「コレ、愛の共同作業?」言う事はしっかりとふざけていた。
 「ただの分業だ。一度死んでしまえ」
 普段よりも幾分乱暴な調子で叱りつけて部屋を追い出す。思い通りの操縦は無理でも、扱いにおいてはそう難くない弟だ。
 (事前にエサを用意しておくのが一番確実な方法だな。覚えておこう)
 エサとをイコールで結ぶ思考に申し訳なさが生まれないわけでもない。
 二度目の重い嘆息を置いて、雲水も床を立ち上がる。
 (あいつには、すまない事をする)
 室内だと言うのに、落とした呼気は白かった。冬もいよいよだろうか。



***



 部屋を訪れたは良いが、目指した相手は既に夢の中だ。
 せっかく真摯な謝罪の一つもくれてやろうと思ったら、とんだフェイントをかけられた。十時前に安眠する社会人が何処にいる、と考えかけて阿含は視線を落とす。そこにいるのだ。白い壁に囲われた、殺風景な部屋の中央。
 掛け布団からてっぺんだけはみ出している、小さな丸みがだ。
 胎児のように、半ば膝を抱えて寝ている。寒いのか、それとも単に子供っぽい癖や寝相の問題なのか。彼女に与えた寝具は、冬日に体調を崩さないギリギリの物を選んでいる。風邪はひかないが、決して温かくもない。ましてや暖房器具のない部屋だ。並大抵の根性では音を上げて逃げ出すに違いない。
 (イヤガラセでやってると思われてんのかね、これは)
 無音の所作で枕元にかがみ込んだ。
 窓から差し込む月明かりが、の頬を薄ぼんやりと照らしつける。頼りなげに青ざめた色だ。生きて呼吸する人間の顔には見えなかった。
 (俺だって精一杯やさしくしてやろうと思ってんのに)
 (こいつがバカだから悪い)(このアホが)
 くせのない髪を梳いてやると、くぐもった吐息が漏れた。一瞬、声の主がむくりと起き上がって「何すんですかアンタ」なんて言い出す姿を想像する。けれども眼下の当人は相も変わらず安穏な眠りを貪るだけだ。とことんまで寝汚い。
 「別に、寝てるなら寝てるで良いけど」
 兄の言葉を拡大解釈するなら、要は詫びだけ入れておけ、という事だ。
 「余計なトラウマ作ってゴメンナサイ、店長。多分もうしない」
 渡した言葉には多少の戯けが混入している。ほっそりとした頬に手を当て、阿含は息を殺して笑った。何はともあれこれで口約束は果たしたのだ、兄も文句は言えないだろう。聞き手が寝ていようが起きていようが、謝罪は謝罪に違いない。
 余計な屈辱を味わわずに済んだ事で上機嫌だった。翻身ののちに出て行こうとすれば、しかし、既の所で裾を掴んで止められた。驚き、僅かに身体が傾斜する。俄には対応しきれない重みだ。
 振り返れば、上体だけで起きたが、強い力で腰へしがみついていた。
 「! 起きてたのかよ、お前」
 「…………」声をかけるが、返事らしい返事は得られない。
 寝ぼけているのだろうか、と阿含は少し考えた。
 この中腰で動きを封じられた奇妙な格好は、幼い子供が巨大なぬいぐるみに向かってやるあれに似ている。背後から回された腕と、背骨に当たる頭。抱きしめられていると言い換えても、多分におかしくない体勢だ。普段の彼女ならば命令されてもやらないような。
 (や、いや。ノーマルに考えて異常だろ。こいつ俺の事毛嫌いしてんじゃねえの)頭では理解していても、身動きが取れない。動けと思えば動く足を、何処かで停滞させようと命じる意志があるらしかった。
 待って、と微量な震えを含んだ声が呟く。
 絡まる腕に柔らかい力が込められて、幼い体温が移って来た。青白い皮膚をしているくせに、案外内側を流れる血は温かいようだ。浸透と共に冷静さも失われて行く。
 「? なにやって…」
 「う、……待って……ねが…い」
 呼びかけは半ばで遮られた。駄々っ子のように何度も首を振り、声を詰まらせる。この状況は一体どう処理すべきか、考えあぐねて石になるのは阿含だ。軽い目眩が足下を覚束なくさせる。場の空気が膠着して行く。弱々しい「待って」を繰り返しながら、は頑として腕の力を緩めない。
 「待ってよ……」
 そうして数秒の後、痛切な叫声が響いていた。
 「―――待ってよ、クマさん!!」
 「!?」
 人の背にしがみついておいて、制止をかける相手がクマか。
 反射的に、ずるりと音がしそうな動きで膝をつく。阿含が脱力から立ち直ったのと、鋭い目つきで後部を振り返ったのとはほぼ同時だった。
 視界を下げれば、後部のは案の定寝ぼけている。布団から半分抜け出したまま、べたりと伸びきった肢体。平穏な寝顔がくまさん、くまさん、と切実に繰り返す。キレないはずがなかった。
 「て、め…っ。なにがクマだ! ざけんなよコラァ!!」
 他ならぬ料理長相手なので、そこそこの加減はしてやったつもりだ。とは言え、殺しきれない勢いがゴッと音を立てて額に命中したのも、阿含の怒りを考えた上では仕方のない結果かもしれない。鈍痛に耐えかね、未だ眠りの中のは顔を顰めた。うう、と濁音混じりの痛々しげな呻きがあったが、この程度の衝撃に妨害される眠りではないようだ。
 ならば、と阿含は少女の肩を掴んでもう一発目をぶち込みにかかる。自分でも気付かない内に、余程腹を立てていたのかもしれない。
 (紛らわしいんだよ、クソ料理長!)
 ゴツッ。激突と同時に酷い音があった。脳天を弾かれ、上体を仰け反らせる速度は緩い。見開かれたブラウンには、痛みに対する驚きの先行が顕著だった。ようやっとの裏返った悲鳴が聞こえる。
 「うわっ。あ、え、く、―――くまさん!?」
 「いるわけねーだろ」
 膨張する怒りを込めて、浅く寝癖のついた頭をバシリと叩いた。
 呆気に取られた様子でが顔を上げる。
 「人の背中捕まえてクマクマ言いやがって。どんな愉快な夢見てんだよお前」
 「え……い、一休がこぐまに食われたから、助けようと……したんですけど、くまがシベリア行くって言う、から、つ、津軽まで追って」
 寝起きの子供の支離滅裂としたテンション。胡乱な眼で見つめる阿含に、は回らない舌で懸命な力説を展開する。
 傾聴してやろうという気は特にない。ただそこに存在する下らない真実が知れた時点で十分だった。げんなりと肩を落とし、手の甲を見つめる。
 「………。俺は、そんなアホな寝言に踊らされてたわけ」
 「へ?」
 兄の言った少し死にたい気分というやつを、今、別の意味で少し理解していた。
 俯いて額を押さえれば、茶色の瞳が大きく瞬いてそれを収める。間違いなく何一つ理解していない幼児の表情。怒りと安堵のないまぜになった感覚が内側を満たした。
 (もう一発くらい痛いのお見舞いしてやりゃ良かった)
 今からでもそう遅くはない後悔である。
 「あっ。そ、そうだ。その、一休の具合は?」
 不穏な空気を感じ取ったのか、おずおずといった調子でが訊く。
 想定はしていた質問だが、それにしたって良い気分はしない。返答の前にチッと一つ舌打ちしてやった。法事帰りの仕出し屋と雑用が、何故半日足らずでここまで懇意の仲になるというのだろう。
 「割と生きてるんじゃねえの。五割くらい」
 「ほとんど半殺しじゃないですか!?」
 たかがミルクでそんな、との唸るのが聞こえる。
 彼女にとってはたかがミルクでも、あの瞬間の第三者にとっては違ったのだ。ソファは濡らしてませんよとかそういう問題でもない。兄との口約を思い出して、阿含は眉間に皺を寄せた。
 (根本的に分かってねえヤツに謝ったって、意味あんのかよ)
 心中吐き出し、の間抜け面を見下ろす。
 燻り始めた不機嫌は収拾の見通しがつかない。咎める眼差しに応えるのも億劫で、はぐらかすように目を逸らしていた。
 「……ああ、そう。ついでにあれ、俺の勘違いだったから」
 陳謝だと悟られぬよう、出来る限り何でもないような声色を使う。ついでに、が他の文節よりいくらか強調されただけで、全体としては自然な感触だった。
 かんちがい? 語尾上がりに反芻し、少女がきょとんと瞳を丸くする。
 「そ。半分はあいつが、つーかお前らが悪いと思うけど。なんか一応俺にも非があるみたいだし、そんだけ言っとく。ホント一応な」
 謝罪など面と向かっては言い難いものだ。そうでなくても気分が悪い。
 言い終えて満足に息を吐くも、目下のは要領を得ないと言った具合に眉を顰める。彼女の理解の遅さは天稟の物なのか、それとも後天的にそうなってしまった物なのか。何にしろ周囲の人間にとって有難い話ではなかった。次いで投げつけられた言葉に、阿含は目尻を引き攣らせた。
 「なにが言いたいのか、よく分かんないです」
 「だから今聞いたまんまだろ」
 「その、まんまの部分が、サッパリなんですけど」
 心底困惑した返事を突きつけられ、持ち直しかけていた機嫌のメータがマイナスに近い部分まで落ち込む。
 「おちょくってんのかお前」
 「いやそうじゃなくて、あなたの言うこと回りくどいから……」
 対するは半ば呆れ顔である。憎からず思っている人間でなければ、即座に固め技の一つもかけていたかもしれない、この態度。暗がりの中、握りしめた拳が苛立に戦慄く。結局は気短な阿含が先に声を荒らげるはめになった。
 「こんだけ率直に言って回りくどいもねえだろ、察しろアホ!」
 ひっ、とか細い悲鳴が上がる。
 は反射的に数歩後ずさって―――平素ならばここで居竦まってしまう彼女だが、今日だけは負けていない―――しかし布団の縁から尻が落ちそうになった所で、なけなしの根性を開き直らせた。
 「ア…、アホでも分かるように教えて下さいよ! 大人なんでしょ!?」
 自身も既に社会人であるという自覚は忘失していた。にじりと顔を突き合わせ、強情に叫ぶ。瞬間的に阿含は口を噤んだ。気圧されたのはとは違う沈黙だが、反論し難い空気なのは確かだった。
 (クソ、このバカ。言われる前に気付け。畜生!)
 「…………」
 表情のない眉間に、僅かな剣呑さを帯びた曇が生まれる。
 要求されているのは言葉の咀嚼だ。獣の母が自ら咀嚼したエサを子へ受け渡すように、阿含はへ、噛み砕いた意味をくれてやらなければならなかった。
 馬鹿な。阿含が自尊心に触れない極限の口上で謝罪をしたというのに、その重要な事情を汲む事すら出来ない。まったく、殺したいほど使い勝手の悪い構造をしている。何処まで小さい脳味噌だ。
 (最悪。マジ俺ばっか損してんじゃねえの)
 冷たい外気に諦めが溶けて行く。思考機能の脆弱性も境地へ至れば兵器に変わるのだ。阿含は鬱然と、量感のある溜め息を落とした。
 「……もう良い。ごめんって言や、満足なわけ」
 「はっ…?」
 問い返すように、が頓狂な声を出す。気に障る反応だった。
 (そういう鈍さが頭に来んだよ……!)声には出さず苛々し、腹いせとばかりにの頬を指先につまんでやる。すべすべとした手触りが心地良いのもまた癪で、ギュウウ、と両手の指先に力を込めた。
 「イタッ。なっ、何すんですか!」
 「ごめんなさいっつってんだよ。空脳には詫びの意味も分かんねえの?」
 正統な謝罪。ごめんなさい、すみません、悪かった、に帰結する言葉。他人に、ましてやの料理長を相手に、軽口でなくそれを言う。大きな抵抗と恥とを伴う行為だ。こうして照れ混じりの会話を交わしている間も屈辱に深々と片足を突っ込んでいる心地がする。
 放っておけば全身埋まってしまいそうな予感に新たな種類の目眩を覚え、阿含は黙々と指に込める力を殊更強めた。おまけの一手で左右へ引き伸ばしてやれば、泣き混じりの悲鳴が聞こえる。はっきり言って快感だ。
 「あああ痛いいたいいたい! すいませんイテッ、ちょ、いやその、馬鹿にしたわけじゃなくて……あ、あなたも、ごめんなさいとか言えるんだって。び、びっくりしたんです!」
 「どういうびっくり、ソレ」
 「だ、だだ、だからあの、見直したって方の意味、でっ」
 馬鹿にされているのではないと分かっていても、押し殺せないものがあった。情けなさい涙目で許しを乞うを冷淡に睨みつけて、唇を曲げる。実に無知を絵に描いたような顔だ。てんで悪びれたふうもないし、この発言だって本心から出たのに違いない。
 収めきれない感情はあるが、これ以上虐めるのも道理ではなかった。阿含にだってそういう道徳的な観念がないわけじゃあないのだ。
 「お前が見直したとか見直さないとか、俺に関係なくねえ?」
 「おっしゃる通りです……生まれて来てすいません」
 悔しげな呟きを聞くと、気分が幾らか回復した。薄く笑って手を離す。
 安堵の息を零してが布団にひっくり返った。解放された頬をこれ見よがしにさすっては「伸びたらどうすんだもう」なんて今更の文句を垂れている。暴力の再帰を恐れてか、掻き消えそうな小声だ。阿含は親切に聞かないふりをしてやる事にした。
 「ま、良いけど。無駄口叩いてないでさっさと寝ろよ雑用」
 鼻先で嘲り、立ち上がる。
 翻った背中は―――今度こそ引き止められなかった。けれども戸を押した時分、
 「自分で起こしに来たくせに…」
 という至極もっともな恨み言の一つが耳を掠めたので、阿含はを小突く為に再度背後を振り返った。泣き声と懇願とが、一時に冬の闇を震わせた。