「
 がぶり。卵焼きにかぶりついた直後、机の向こうから呼んだ声に両目を上向けた。
 黄色いタンパク質の塊を口中で咀嚼しながら、は首をひねる。
 (いつから名前呼びになったっけ)
 奴隷としてのスキルレベルがそこへ見合う値に達したという事だろうか。これ以上虐げられてもな、と眉を顰めつつごくりと飲み下す。視線は上げたままで、マグカップのミルクを手に取って口に含んだ。向き合った阿含の表情は何気ない。のそれよりも二回りか更にもう一回りほど長い箸を握り、平生と変わらない冷めた顔つきで佇んでいる。
 お前さあ、と低い声が言った。
 やはりいつも通りの舐めきった口調だ。不快に間延びしたテンポではないのに、何処かふざけた部分を感じる。
 「許可、出してほしいか」
 「キョカ?」
 届いた一言目に、怪訝な返答をした。随分と突拍子のない事を言うものだ。
 無粋な反応にも関わらず、阿含が平然と続ける。
 「外出許可くれてやろうかってこと」
 げほっ。二言目で、予期せず噴き出した。
 「ああああっ、またそんな思いっきり―――のバカ!」罵倒、と言うよりは血の気の引いた悲鳴を上げ、斜向いの一休が素早くティッシュをつかみ取った。あの不幸な一件以来、彼の中ではどうもミルクへのトラウマが形成されてしまったらしい。差し出された薄い紙をおずおずと受け取り、は口元の汚れを拭い取る。
 「こうやって家にじっとしてたらストレス溜まんだろ。体も動かせねーし」
 話の主は、硬直しかけた空気に構う素振りも見せなかった。小皿に残り一つとなった卵焼きを箸で捕らえ、口先に連れて行く。
 「えっ……そ、そーですね」
 躊躇いがちに瞳を上向けて頷き返す。どういう風の吹き回しだと問いかけたい気持ちは山々だが、即刻頭から醤油を浴びせかけられかねないリスクを考慮するとそれも不可能だ。奴隷にはただ黙って散らばった飛沫を拭い続ける選択肢しかない。
 「そう。じゃ、良いんじゃねえの」
 なにが良いって言うんだろう。
 の疑問を他所に、卓上が完璧に元通りになった頃、阿含が最後の玉子を嚥下した。
 「ホクロのアホと不貞働かれても腹立つし。許してやるよ、外出。嬉しい?」
 「はあ……」(そりゃ、有難いけど)
 表向き素直に流されてはみるものの、内心深く首をかしげる。
 この親切にもまた裏があるのか。それとも、彼なりの速度で心情を変化させた故の結果なのか。いや、更に裏の裏をかいて、冗談という事も有り得る。
 (単なる気まぐれか何かなのかな。もしかして、からかわれてる?)
 いくらの料理長と言えど、奴隷主を懐疑するだけの知能がないわけでもない。彼の極悪非道ぶりはわざわざ引っ張って来て思い出すまでもない事だ。ここへ来て唐突な交換条件を突きつけられたりはしないだろうか、とは青ざめた心地で首を縮めた。彼女の微力な脳味噌を総動員して考えても、なかなかどうして、阿含が意図するものだけはとんと読み取れないのだ。
 (この人の言うことって、意味分かんないや。いつもそうだ)
 (馬鹿にする為にわざとやってるってことは……有り得なくもないな)
 上目遣いに窺う、だけで心理を推し量れるのなら、彼との関係に苦労などない。
 今後の意思疎通には解説者か、せめて通訳があった方が良いと思う。頼みの綱とばかりに、は隣の青年の裾を引っ張った。皮肉を気にせず質問するのなら、債鬼がテレビに気を取られている今しかない。
 「すいません。雲水さん」
 「ん?」
 「フテーって、何なんですか」眉間に険しい影を落として囁く。
 隠された思惑より何より、最大の疑問はそこだ。
 「…………」
 振り返りかけの横顔から、はっきりとした閉口が返って来た。
 僅かな膠着と逡巡ののち、ニュースキャスターの声に紛れて聞こえる嘆息。呆れているのか同情しているのか、悲観的な色の瞳がを見下ろす。気の毒そうに瞼がしなり、閉じられた。
 「そうだな、。……今年のクリスマスプレゼントは辞書にしておこう」
 「へ?」「お前にはそれが一番だ」
 余計にわけが分からない。
 瞳で問いかけても、雲水は自らを納得させるように頷くばかりだ。
 「良かったじゃないすか。頭の容量、やっと人並みになるかもしれませんよ」
 横聞きしていていたらしい一休が、いつの間にか会話に加わっていた。
 (やっとも何も、いつだって人並みのつもりだっつの!)人並み以下、とするとなんだろう。MDかCDか、もっと悪く取るならフロッピー並だとでも言いたいのか。馬鹿にしないでよ、と声には出さず反論し、拗ねた心地で再びカップに手を添えるだ。飲み干した後も、冷めたミルクの香りが舌の裏側で延々とけぶっていた。
 (なんでもかんでも急過ぎるんだよ、あの人は。許してやるーとか突然言われても、行き先に困るっていうかさ……)
 わだかまりの残る朝食を終えてすぐ、は皿洗いに取りかかった。昼時までに出来る限りの支度、清掃、―――接客に限っては、どういうわけだか未だに任せてもらえた試しがない。がやらかすヘマを危惧しての処置だろう。妥当な判断だった―――夕刻まで普段と変わらぬ雑務をこなし、全てが終わった時には八時も三十分を回っていた。
 (休日か仕事の時間外なら、好きに外出して良い。行き先さえ教えれば)
 下された主命の追加事項を反芻し、壁時計を見上げる。
 何処へ向かおうか、考え始めるには少し遅過ぎる時間だ。とはいえ、到底外出を諦める気にもなれない。前のめりの姿勢で、は頑なに、きびきびと廊下を歩いた。
 (とにかく、外出よう。家でじっとしてるのはだめだ)
 飼い殺し状態への順応を認めるような行為には、とてもじゃないが堪えられなかった。そこばかりはきっと、人間として踏みとどまるべき一線なのだ。
 自室で普段着に着替え、見苦しくない程度に整髪し直す。
 そのままの足で玄関へ向かうと、厨房から出て来た一休にすれ違った。
 「? どーしたんすか」
 「ちょっとコンビニ行って来る。遅くならないように戻るから」
 告げて、数週ぶりに外行きの靴を履く。
 札も小銭もカードもないが、見て回るぐらいは出来るだろう。外の空気さえ吸えたら、それが何よりの滋養だ。きゅっ、と靴ひもが小気味良い音を立てた。
 「見て回るだけって惨めなカンジしないっすか? どうせ行くなら、おつかい済ませて来て下さいよ」
 代金はこっちが持ちますから。気軽な依頼に並行して押し付けられた、一万円札と小さな紙片。どうやら買い物メモのようだ。『明日の夕飯』という太字の下に、見慣れた筆跡で材料名が走り書きされている。
 「ホントは俺が頼まれてたんすけど。が行ってくれるなら無問題っすね」
 「え。や、あの、これ明らかパシリ?」
 「お願いしてるからパシリって言いません」
 (こんな強制的なお願いってあるか!)
 有無を言わさず壁掛けの防寒具を手渡し、一休が微笑む。
 了承する前からいってらしゃいを言う気でいるのは何故だろう。小柄の女に丁度良いサイズの外衣が事前準備されているのは何故だろう。
 抱いた疑問はどれも無言の内に圧殺されて行くので、喉を滑る事はない。
 「ちゃんとスーパーまで行くんすよ。横着せずに」
 「はーい…」
 「多分迷ったりはないと思いますけど、一応、大通り渡ったとこですからね!」
 「はいはいはいはい」
 妙な所で庶民的な取り立て屋もいたものだと、内心呻く。彼はただの出前だが。
 「ハイは四回もいりません。いってらっしゃい」手厳しい忠告と共に、花さえ飛ばしそうなとびきりの笑顔を置いて、一休が去って行く。完敗の余韻に嘆息するだが、買い物をさせてくれるという厚意自体に不満があるわけではなかった。
 (糸こんにゃく、にんじん、しいたけ、長ネギ……、鍋でもするつもりかな?)
 メモに載った文量は思いの外多かった。これは手こずる荷物になるかもしれない、と朧に予想しつつジャケットの前を合わせる。
 ドアノブに手をかけた所で、再び誰かの足音が近づくを聞いた。何とはなしに振り向いた瞬間、視線がかち合う。
 「なに、もう出んの?」阿含だ。朝方と変わらぬ半眼で佇んでいる。
 「はい。買い物頼まれたんで、向かいの道のスーパーまで」
 「初めてのおつかいってワケ。なら一緒に行ってやるよ」
 一緒に? 疑るように復唱して、が眉根を寄せた。
 阿含は静かに瞳だけで頷く。
 「めんどいけど一応、念の為な」
 「別に逃げたりしませんよ」心外と言わんばかりにが目を細める。
 先手を取った返答の裏側には、僅かな怒りが込められていた。
 「バカ、違ぇよ。お前みたいな幸せな頭した奴が一人でうろついて、無事に帰って来れるわけないから言ってんの」
 「出来ますよ、ひとりで。行って帰ってくるくらいラクショーですもん」
 「嘘言え。この辺の地理も知らねえくせに」
 既にコートを羽織ってしまった状態で、阿含は小馬鹿にしたように肩を竦めてみせる。喧嘩でも売りつけているつもりなのだろうか、腹が立つほど的確な指摘だ。対抗する術もなく、内心ぎりぎりと歯ぎしりした。
 「拉致されながらなんとなく見て来ましたからヘーキです!」
 「なんとなく。へえ。間抜け面で失神してたくせに?」
 ぐっ、と喉を詰まらせてが俯く。
 (なんで今更それを思い出させようって……!)歯ぎしりする間に背中を掴まれ、玄関から押し出された。背後でバタンと扉の閉まる音が響く。
 生意気な奴隷を言いくるめてやった事が余程嬉しいのか。縮こまるの首にマフラーを巻き付けながら、やけに弾んだ声で阿含が囁いた。
 「。ペットがご主人様に文句つける権利とかないって、理解してる?」
 (ペ………)
 奴隷、どころか―――最早ペットの扱いだ。
 人権無視もここまで来ると清々しい。さめざめと涙を流しながら、ですよねえ、そりゃそうですよねえ、と繰り返すである。



 結局は二人連れ立っての外出となった。
 不本意な話ではあるけれども、成り行きが成り行きなので仕方ない。
 冬が本格的な到来を開始した事で、夜の訪れも早くなりつつある。久方ぶりに吸った外気は鉄に似た味がした。大通りの向こうにあるスーパー、という一休の指示を頭に巡らせながらは沿路を歩く。横を歩く阿含が指示一つ出さないので、勘を頼りに進むしかなかった。一体、進行方向は正確なのだろうか。
 歩き続けて、一つ二つとバス停を通り過ぎる。人通りの多い道へ近づく内、ちらほらと人工的な光が目につくようになった。
 赤、黄、緑、を基調としたイルミネーション。祭りでもやるのだろうか、と訝りながら道の端々へ視線を巡らせる。光彩がかたどる字句に気付いた時、初めてそこにある意義を知った。
 (そっか。もうそんな時期なんだ)
 思えば、数日前からそれらしい話題がメディアを賑わせていた気がしなくもない。
 メリークリスマス。白光に縁取られた英字が実感を確かなものにする。浮かれた空気と軽快な音楽。道行くカップル、親子連れ。住宅街から遠ざかるにつれ増して行く幸福の密度は、意識せずとも感じ取る事が出来た。
 (ずっと他人事だったからなぁ……)
 はあ、とが深い溜め息を吐く。鬱然としたものではない。
 首を反らせて仰ぎ見た先に、てっぺんが星で飾られたモミの木が聳えていた。例年の今頃なら、店の皆とウノ大会でもしていたかもしれない。飯店のような小規模の中華屋は、クリスマスの宴会準備なんてものとは大概縁が薄いのだ。
 「23日っていうと、イブのイブ?」
 耳を貸す者のいない呟きだ。すり抜ける夜風に、は小さく身震いした。ポケットに突っ込んでいた両手を擦り合わせる。
 突き刺さる冷気は厳しいが、前進が億劫になるほどでもなかった。裏地付きのジャケットはしっかりと風の侵入を阻んでいるし、首のぐるりを覆うマフラーだってある。ふわふわとした感触が心地いい、空色の布地だ。以前の―――の十一代目だった頃のエプロンを想起させる、鮮やかな青。
 (そういえば、こういう上着なんかって何の為に買ってあるんだろ。女物みたいだけど……金剛さんの配慮?)
 袖口からファーから襟ぐりまで、見た所キズもほつれも見当たらない。新品だろうか。唇を曲げたままはむうと唸った。
 (でも外出許可が出ること、知らなかったみたいだし)
 牛乳事件で散々な目に遭ったばかりの一休がこんな親切心を起こすとも考えにくい。債鬼に至っては配慮の概念があるのかすら怪しまれる―――、言う間でもなく論外だ。
 (そもそも、奴隷のご機嫌とって得することなんかないだろーに……)
 ふと、ツリーから視線を逸らす。の背が跳ねた。
 (あっ。え、あれ?)隣を歩いていたはずの、青年の姿が見当たらない。
 ハッとして辺りを見回すと、後方の暗がりから数歩遅れてついて来る人影が目に入った。はぐれたわけでは、なかったようだ。ロードミラーの下から、石のような無表情がこちらを見ている。
 「ど、どうしたんですか。黙り込んで」
 「別に」
 素っ気なく答えて、阿含が瞼を伏せた。
 何だか不安な反応だ。振り向いた時には、あれだけ凝視していたのに。目で殺す訓練でもしていたのだろうか、と内心煩悶しながら、しかし声には出来ないだ。
 「もしかして、あの……どっかに置き去りにする気とか、じゃ」
 煮え切らない疑問形だった。阿含がピクリと眉を上げる。
 「なに。俺が一人で帰るって言いたいわけ」
 「あ、いや、その。結構平気でやってのけそうかなーと……」
 「ハア?」間髪入れずに、蔑んだような切り返し。
 思わずおろおろとして後ずさるに、普段よりもいくらか鋭い半眼を寄越す。薄汚い虫けらでも相手にするような目つきだ。
 「バッカじゃねえの。んなみすみす逃がすみてーな真似するかよ」
 角立った返答ののち、むずと少女の頭を掴む。
 無理矢理な力だ。反論は許さないとでも言うように、再びはじめの方角を向かせて背中を押した。痛みとは別のものにが顔を歪める。
 「そ、その言い方だと、最初から疑ってたみたいに聞こえるんですけど」
 「ふーん。だったら何? 信じてもらえなくて悲しいって?」
 「…………」
 正直に言えば、腹が立って死にそうだ。本音は喉の奥だけに留める。
 皺寄せた眉間に苛立を乗せて送るが、阿含はてんで取り合わない。何処まで行ってもからかいの態度そのままでに接する。
 「う、疑ってないようなこと言ったくせに……!」
 うそつき。詰りにも関わらず蚊の鳴くような声音だった。耳聡く聞きつけて、阿含が肩を竦めてみせる。
 「は俺にウソ吐かれたくらいでそんな顔しちゃうんだ」
 「そんな顔って…」
 「ねじ込んでやりたくなる顔」
 遮り答え、阿含がニッコリ笑う。また爽やかにわけの分からない事を言うものだ。うんざりとしてが息を吐く。余裕綽々、見下ろす双眸に殊更怒りが募った。
 「ふざけないで下さい。人のこと何だと思ってんですか!」
 「んー。言ってなかったっけ? スキだって」
 心底から楽しむ口調だ。整合しているようで、微妙に噛み合ない。
 阿含はくすりと声を漏らした。長い指が緩やかな動きで下りて来て、少女の黒髪を上下に梳きおろす。彼がこういった類いの不可思議な接触を―――柔らかい言い方をすれば、スキンシップを―――好む人間であるという事はもよく理解している。
 「ワケ分かんない冗談は嫌いです」
 「分かんないのはお前が頭足りてない所為だろ。猿以下。カワイソウな
 (……うん。いっぺん殴っちゃダメかなァ、この人)
 実現不可能な望みを胸に、淀む眼を下向けた。
 諦めも一種の習性だ。消極的な意地に過ぎないと知りつつも、は歩調を早める。
 「良いのかねぇ。早まって」
 にやにやと口角を持ち上げて、阿含。大股に歩き続けるの一歩後ろを苦もない様子でキープしている。ひやかしの明白な口ぶりにが唇を尖らせた。
 「逆走でもしてほしいんですか? バカにするだけなら放っといて下さいよ」
 「あー、お前のそういう分かりやすい拗ね方大好き。頭の悪さ全開で」
 「アンタ私と会話成り立たせる気ないですよねえッ!?」
 「は俺と会話してぇの?」
 「…………っっ」
 はぐらかすような質問だ。
 答える義務はないとばかり、は堅い動きで首を振った。
 「そもそも私の目的は買い物で、あなたの目的はその監視じゃないですかっ。さっさと済ませて帰った方が断然おトクですよ。こんなとこでムダな体力使ってるくらいなら、もっと―――」
 「ああそう、それだけど」
 俄に阿含が足を止める。貝印のガソリンスタンドの手前に差し掛かった時だ。
 進行を続けようとするの正面に回ると、胸を押さえて押し止めた。
 「そんなに急がなくても、とっくに過ぎてるから」
 「は?」
 間の抜けた面が聞き返せば、大仰な調子で俯いてみせる。ふう、とわざとらしく勿体ぶった一呼吸の後、今度は幾分はっきりした発声で繋げた。
 「お前が言ってた店。もう五分くらい前に通り過ぎちゃってんの」
 「―――え」「あの看板立ってるとこ。青に白抜きのエス、見えるだろ」
 指図に準じて振り返れば、それは容易に見つかった。
 背の低い集合住宅に紛れて立つ、電光看板。青地に歪曲した白の英字がくっきりと浮き出ている。歩道にほぼ突き出た形で立地しているから、意識して歩いていれば必然的に目に入ったはずの物なのだろう―――理解に伴い、の顔から色が失せた。
 「な、なんでずっと黙ってたんですか!?」
 「俺も途中まで忘れてたのとー。あとは、あえて言うならやさしさ?」
 「ワケ分かんないですよそれ!!」
 心に留めておくはずだった突っ込みがぽろりと零れた。表情の薄い瞼がむっとしたふうに鋭くつり上がる。
 「……、どっかのグズ料理長がツリーに見とれてやがったから、邪魔しねーでやろうと思ったんだけど。そういう大人の配慮には気付けないってわけ?」
 今度こそ分かりやすい怒り顔だ。え、の形に開口したまま硬直するを、サングラスの下の二つ眼が冷たく見下ろす。見つめ合った時間は長かったかもしれないし、体感のそれに比べれば短かったのかもしれない。ややあって、抑揚のない声がする。
 「の娘……。そういうとこ、マジむかつくよな」
 阿含の口に、普段通りの呼び名が戻って来ていた。
 けれどもその意味を思考する前に、
 「うわっ」ガシリ、と布越しの感触。が飛び跳ねる。
 ジャケットで覆われた手首を引っ掴むと―――調教師が犬のリードでも引くような、強引なやり方で―――説明もつけず、阿含が明後日の方向に歩き出した。靴底が一つ地を打つごとに、数分前まで目指していた風景がぐんぐん遠ざかって行く。
 「ちょ、そっち脇道……!?」
 「こっから戻った方が楽だし早ぇんだよ」
 あたふたと騒ぎ立てたのはだけだ。告げる声は淡々としている。
 広い歩幅に一生懸命合わせて歩く内、大通りの華やいだ流れから静まり返った小道へと抜けた。一方通行の車線にぽつぽつと街灯が突っ立ているばかりの、全体としては薄暗い一本道―――人からも、光からも、喧噪からも遠い。
 交通量がゼロに等しい道なので、楽と言えば確かに楽なのだが。
 (い、いまいち、よく分かんないんだけど……)
 立ちこめる暗闇の中では、寒気も一層際立って感じられるようだった。
 自由な側の手をポケットに潜り込ませながら、密やかに眉を寄せ合わせる。
 (この人なりに気遣ってくれたって解釈で、いいのかな。これは)
 ―――些か、自分に都合の良過ぎる釈義かもしれない。
 考えた所で、強烈な北風に襲われた。慌ててギュッと目を閉じるも、暴力じみた寒さは防げない。うう、と全身を戦慄かせて呻けば、驚いたように立ち止まる気配がする。
 「あっ…と…、ご、ごめんなさい」
 謝罪に明確な理由はなかった。至って反射的なものだ。
 触れた部分から震えが伝わったのかもしれない。はそっと頭上に目を遣る。広がった髪を押さえつけながら窺い見た先に、珍しく曇り顔の債鬼があった。
 「もう少し肉つけるか厚着しろよ、お前。見てるこっちが寒い」
 不機嫌な声色だ。それでも目だけは笑っている。骨張った指がゆるゆると伸びて来て、半端に乱れた少女のマフラーを巻き直した。
 「あなたも十分寒そうですよ。手袋くらいつけないんですか?」
 赤らんだ指先に気後れがちな眼差しが注がれる。
 配慮を振り切るように、青年はきっぱりと首を振ってみせた。
 「仕事でどうせ汚れるし。っていうか、そもそも冷えないから必要ない」
 「ハァ……羨ましい限りですね」
 「なにお前。暗に買ってほしいって意思表示してんの?」
 問いかけ。と共に、大きな手がの頬を包み込んだ。ひやりとしたのは爪先が当たった一瞬だけで、後には掌の程よい温さだけが染みて行く。
 (あ、すご。本当にあったかいんだ)心中感嘆を零して、添えられた熱の上に手を重ねる。一瞬の強張りと、それから吐息混じりの笑い声。苦笑のように聞こえたのは気の所為だろうか。
 「まさか、ほしいなんて言ってもどうせ買ってくれないじゃないですか」
 言い返して、が少しだけ笑った。
 白い靄のような呼気が夜を湿らせて昇って行く。
 「どうだろうな。ペットのお願いなら、聞いてやらない事もないけど」
 同じように、阿含の声も靄になる。皮肉でない彼の笑い声など、ここへ来て初めて聞いたかもしれない。珍しいことも続くもんだ、とが瞳を瞬かせた。


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