「困った」
 「困ったっすね」
 方途をなくした声が重なる。
 絞る端から生まれる水音は止まる気配を見せない。
 「あの人、帰って来たらなんて言うかな」
 「阿含さんっすか?」
 「うん」
 握りしめた衣服の裾から、ぼたぼたと大粒の雫が垂れ落ちて行く。
 シンクを走る透明な流れに色落ちの可能性はないと知るも、心から安堵する気にはなれない。シャツ、ジーンズの上下だけならまだしも、支給のエプロンまで水気を含んでぐったりしている。
 この惨状を彼が目にしたら何と言うだろうか。謝罪の二文字だけで易々と許してくれるような男だとは思えない。
 「アンタは心配する事ないでしょ、あの人のお気に入りなんだから」
 「いや、そういうのないって……。ただの奴隷だよ、奴隷」
 苦々しい呻きの後に、尾を引く溜め息を落とす。
 (拉致監禁、暴力、脅迫)
 (あれがお気に入りに対する態度だったら、さすがに金剛の人格疑うよ)
 限りなく本音に近い感想は喉元で殺し、黙ってエプロンを絞り続ける。
 雑用もタダ働きも身売りも、とどのつまりは奴隷と同じだ。軟禁と労働、移動の自由も人権すらも無視され続ける毎日。言葉の手触りが若干違う気がするだけで、結局同じ場所に収束している。
 悪い商売にひっかかった自らを悔いない日はなかったが、無論手遅れな後悔だ。
 「はネガティブっすね。身持ちカタイとか疑心暗鬼とか、よく言われません?」
 「……一休はさらっと失礼だよね」
 それでいて投げかける罵倒は淡白なものだから、毒気を抜かれてしまう。そんな事ないっすよー、と肩を竦める少年の声にはやはり邪気がない。
 「だってフツー奴隷なんて考え及びませんよ。主従プレイは有り得たとして…」
 「は、しゅじゅうぷれい? なにそれ」
 「……………」
 聞き返せば、あからさまに眉を顰められる。随分な反応を寄越すな、と思いつつ答えを待つも、返って来たのは場をはぐらかす空気だけだ。
 静かな溜め息を吐いて、一休が緩やかに首を振った。憐憫の視線だ。
 「アンタみたいな人種は……知らなくても良い事です。むしろ知らない方が良い。どうぞそのままピュアに健やかにお幸せに育って下さい」
 「なっ、ば、バカにしてんの!?」
 「あの人も苦労しますよね。この救えない幼稚園児相手じゃ」
 (い…、言うに事欠いて幼稚園児……っ!!)
 同年代の口からは聞きたくなかった言葉だ。頭をかち割られるようなショックがあった。
 「可哀想な阿含さん」呟いて、一休は流しを離れる。
 肩を戦慄かせるを気に止める素振りも見せない。声をかけるより早く厨房を出て行かれたので、つい行き先を訊きそびれてしまった。絞りかけのパーカーとカットソーは置いたままだ。戻る意思があるという事だろうか。
 (ていうか、あんなカッコで出てったら寒いんじゃ)
 心配する間でもなく、軽い足取りは存外すぐに帰って来た。
 両手にバスタオルを携えた格好で、厨房の入口に突っ立っている。見慣れた白地が二枚、ふかふかに乾いた未使用だ。
 (持って来てくれたの?)が目を丸くする。
 緩慢に口を開きかけ、だが、問う前にタオルが顔面を直撃していた。
 「ぷわっ! な、なに―――?」
 「床拭き終えたし、服もあらかた絞りましたよね? それで頭拭いてください」
 慌てるに半眼の一瞥をくれつつ、彼自身もタオルで髪を押さえる。筋の立った胸板にはたはたと滴を零しながら、少年は再び身を翻した。身軽な動作に合わせて、硬そうな逆毛がふっと揺れる。
 「部屋移りますよ。ここにいたら、馬鹿でも風邪ひく」
 終わりの一言が腑に落ちないでもなかったが、一先ずは頷いてもその後に続く。
 二人分の湿った足音を響かせ、入った先はリビングだ。閉め切られた室内には、仄かながら、人の気配の残滓を感じる事が出来た。暖房の吐き出した温風が辛うじて生温い形を保ったまま、足下に滞留している。飲みかけで置かれたマグカップからは、薄いコーヒーの匂いがあった。
 「雲水さん、ちょっと前までいたみたいだね。出かけたのかな」
 一休が中央のソファへ無造作にタオルを投げつけ、その上に座った。ジーンズの湿り気を移さない為の配慮だ。感心しつつそれに倣い、も向かい側のソファへつく。皮の感触が首筋に触れた。
 「仕事行ったんじゃないっすか」
 彼の言う仕事とは、金融関係の、つまりは取り立て屋としての用事を示している。ううん、と少女は小さく喉を鳴らした。
 「今日は休みだって聞いてた気がするんだけど」
 「急用入りやすいお仕事なんすよ。逆上した客黙らせたりとか、夜逃げした客の捕獲とか。相手が団体だったりすると、一人じゃ面倒くさいでしょ?」
 「……そんな物騒なことしてるんだ」
 「詳しく聞きたいですか?」
 「いっ!? や、い、いいよ、遠慮します!」
 言葉の裏に血腥い匂いを悟る。
 叫びを上げてが大いに首を振ると、一休は肩を丸めて小さく笑った。今までの、鼻先だけの冷たい嘲笑とは違う、屈託なく血の通った笑顔だ。
 (あ。こういう笑い方もするんだ)
 顔面に豆鉄砲を食らったような心地がした。
 その実年以上にひねた喋り方から、彼を阿含二世のように捉えていた節があったのかもしれない。淡々として皮肉っぽい側面ばかりの少年かと思えば、こんな人間味のある反応もするのだ。当然と言えば当然の事だが、その意外な感覚は、にある種の親近感を与えた。
 「って、ほんとネガティブで意気地なしでしかも良いとこなしっすね。ここまで潔くダメだと、逆に見直したくなって来ました」
 「へ……? え、あ、ああありがとう」
 「あ、おまけに能無しだから四重苦っすね。言っとくけど褒めてませんよ」
 手酷く貶しつつも、頬からは笑みが消えない。穏やかな空気だ。
 (なんか、この人とは仲良くやれる気が)
 (……。よく分かんないけど、金剛よりは、多分)
 根拠のない希望に、も曖昧な笑みを浮かべた。
 そうして、二人して部屋の真中のソファにかけて―――、その後は特に何があったわけでもない。ただ南中にあった陽が傾くまでの間、ずっと取り留めのない会話をした。内容は特に実があるわけでもない、単なる世話事に終始したのだが。
 『俺、アンタを知ってますよ。あの人からちょくちょく聞いてた』
 東で夕暮れの兆しが見え始める頃に、一休が漏らした言葉だ。
 が意味を計りかねて首を曲げれば、『背格好聞かなかったのは、しくじったって感じですけどね』と笑いながら言った。の一休に関する知識と言えば、「仕出し屋」「住み込み」「ホクロ」といった聞きかじりの大ざっぱなものばかりなのに、彼はを知っているという。おかしな話だ。数秒間の戸惑いののち、ややあって、に理解が訪れる。忌まわしい名前に記憶が行き当たり、反射的に眉間をきつく詰めた。
 「あの人私のこと話したの?」
 話題にして面白い内容もないはずだが、あの債鬼の事だから、大方手前が背負い込んだ借金の始末もままならない馬鹿として伝えてくれたのだろう。想像するだけで、不愉快の塊が込み上げて来る。
 (知らない内に、そこまで嫌われ……馬鹿にされてたのか。ショックだ)
 得体の知れない苛立だ。からかうような瞳を一瞥して、は正直に息を吐く。事情を知らない少年は、ただにこやかに言葉を繋げた。
 「取り立てから帰るとよく喋ってくれましたよー。愚痴も結構ありましたけど、大半がオモシロイ話で。ま、お気に入りですからね」
 「だから、そういう冗談やめてよっての……!」
 何を聞いても頭が痛い。項垂れるに同情を寄せるでもなく、一休は上機嫌にソファを立つ。足早にリビングを出て行こうとする背中に驚いて呼び止めるが、あったかいもの持って来ます、とだけ返された。勝手な性格をしている。
 (お気に入りとか、ホントわけ分かんないっていうか……)
 鬼の嫁だの気に入りだの、彼は現状と真逆のニュアンスを含む言葉をことあるごとに使いたがる。実際は奴隷だ。いつ主人の気が変わって店を潰されるとも分からず、脅えて暮らす使用人なのだ。
 (どーしたらそんな勘違い出来るかな)
 すっかり馴染みになった脱力感と共に、凍えた足をぐったりと伸ばした。
 (……一休はポジティブ過ぎるんだよ。楽観的って良いことかもしれないけど)
 二度もネガティブと言われた事を、実は少し根に持っているだ。
 伸ばされた爪先が、二つのソファを隔てる小机につく。空欠伸をした所で、一休が戻った。今度はタオルでなく、一組のカップを手にしている。
 「なにそれ?」
 「ホットミルクです。茶はあんまり好きじゃないんで」
 並々注がれたミルクが内側に揺れた。渡された陶器の表面はほんのり温かい。
 「ふうん、お茶だめなんだ。割と子供っぽいんだね」
 立ち上る湯気を頬に受けながら、は悪びれず笑う。
 こども? 呻いて眉間を険しくしたのは一休だ。苦虫を噛む表情だった。
 「幼稚園児に言われたかありません。主従って漢字も知らないくせに」
 「知らないけど、食べ物なら好き嫌いしないよ!」
 「そりゃあ良かったっすね。でも主従は食べ物じゃありませんから、お生憎様」
 「…………」
 珍しく言い返せたと思ったら、逆に一本取られていた。
 彼を相手に何を言っても、最早失言にしかならないのだろう。情けない諦めを噛み締め、は黙々とミルクを啜り始める。正面で同じくカップに口をつけている少年の顔には、何処か誇らしげな色が浮かんでいた。やはり彼が阿含二世のように思えてならない。
 「ああ。そういえば、ひとつ聞きたかったんすけど」
 「ん?」
 「もうここ来て三週間くらいになるんですよね。は」
 正確には二週間と四日だ。
 口角の白を指で拭い、一休が視線を上げた。
 「結構長い時間ありましたけど、阿含さんとは何かしらの進展あったんすか?」
 ごくん。内に響く音を立てて、の咽喉下を温いミルクが流れ落ちた。
 見つめ返す少年の顔は大真面目である。本日最大の、笑えない冗談―――を言ったつもりなのか。計り知れない思考回路をしている。
 「……すいません、適切なツッコミが思い浮かばないんですけど」
 「ツッコミは良いですから正直に答えてください」
 (いや正直もなにも!)
 この人が高度に意味不明なボケをかますのは今に始まった事じゃない。心中呟きながら、しかしはこめかみの引き攣りを隠せない。構う事なく一休が続ける。
 「さっきから見てると、ってなんか男慣れしてない感じなんすよね。『アレこの人未経験?』みたいな。阿含さんと三週間過ごしてノータッチって事は、まあさすがに有り得ないと思うんすけど。実際のとこどうなのかなーって」
 「の、のーたっち?」
 「何処まで許したのかって事っすよ」
 「ゆる……す?」
 まるで宇宙語だ。成り立たない会話に困り果てて、はへなりと眉を下げる。
 「……アンタって人は、どこまで本気なんすか。俺疲れましたよ」
 一休が呆れた様子で目を細めた。
 (私も、すごく疲れた)無言で同意し、しょんぼりと項垂れる。
 気まずさを紛らせようとマグカップに唇を添えたが、半分以上は冷めきっていた。ただ常温のミルクの味がする。美味いとも不味いとも判断付け難いそれをわざとゆっくり口に含んで、は明後日の方を向いた。向かいに座る少年が辛抱強くそれを眺めている。
 「阿含さんがどうしてを連れて来たかくらい、分かるでしょ。馬鹿でも」
 (そりゃ分かるよ。奴隷に仕立てる為に決まってる)
 声には出さず呟く。だが、思考を汲み取ったかのように一休は何度も首を振った。
 「あの人、ずっと待ってたんすよ。気短なのにすごく長い事」
 「………?」
 「そんだけ好きって事ですよ、アンタが」
 (す、―――)
 見つめる瞳は真剣だ。この期に及んでそんな笑えない冗談を……、考えながらも堪えきれず、ぶはっと噴き出していた。
 「うわ!」宙を待ったミルクは、近距離にいた一休が漏れなく被る事になる。
 本日二度目の望まないシャワーだ。あああ…と声を震わせて、が口に手を当てる。浴びせられた本人は芯から呆然として空を見つめていた。
 「ご、ごめ、あの。そういうつもりじゃなかったんだけど、つい…!」
 「……多少……泣きそうっす」
 「ほっ、ほんとにごめん―――!」
 白液が少年の鼻筋を零れ落ちる。まさか顔面にぶっかける気はなかった。
 取り返しのつかない事態に半分涙ぐみつつ、は一休へ駆け寄り―――しかし足を振り上げた途端ハードルに出くわす。完全にその存在を忘れられていた、木製の小机だ。
 「ちょ……う、うそおおおおっっ!?」
 「………!」
 震動。両足が浮いた状態で倒れ込んだ瞬間、顔面に酷い衝撃があった。
 (い、い、いたいっ。死ぬ!)内心痛みに身悶え、けれども顔を上げる動作は素早い。霞む視界に、人肌色の割れた腹筋が移り込む。
 ハッとして、見れば一休の腹だ。
 は、彼が履く生乾きのジーンズの太腿に額を打ち付けていた。
 「……いっきゅ、足かたい。いたい」
 「そっちこそどんな石頭してんですか。膝なら砕けてたっすよ、もう……」
 怒りを伴わない恨み言を吐いて、気抜けしたふうに一休が笑い出す。つられての肩からも力が抜けた。へへ、と綻んだ頬を白い雫が滴り落ちる。二人してミルク塗れになりながら暗がりで笑い合う姿というのは、他所から見れば少々不気味だったのかもしれない。
 『―――な、』
 唖然とした声が後方の暗がりに響いた。
 聞き覚えのあるハモリだ。振り向けば、双子の兄が立っている。背後に認めた彼の片割れの姿に、リビングの和んだ空気が凍り付いた。
 「あっ。ふ、二人とも、おかえり、なさ」
 「……なにやってんの、お前ら」
 帰宅の挨拶を遮り、阿含が呟く。独り言めいて感情のない声だ。奥底が怒りに揺れているようにも聞こえて、一休とは同時に震え上がった。
 「一休。その白いのは何なわけ」
 骨張った手が指したのは、無論ミルクだ。
 やはりリビングで牛乳散布された事を怒っているらしい。
 (ソファは無事です、汚したのは服とタオルだけですから!)
 必死の弁明は脳裏に反響するばかりで一向に伝わらない。喉が緊張して上手く言葉にならないのだ。名指しされた一休が恐る恐るといった調子で口を開いた。
 「こ、れはそのっ。俺が、俺の一存で出したもので!」
 「………お前が出した。へえ」
 復唱する声には尋常でない色合いが込められていた。このままでは一休の給料や命やその他諸々が危ない。も慌ててフォローに回る。
 「ちが、ちがうよ! 私が飲ませてってお願いしたんだ!」
 「……お願い、した……?」
 「ああああ阿含さん違いますっ、そういう意味じゃありません! 何か誤解してると思うんですけど俺とこの人は何も――」
 「もういい。ホクロ。黙って死ね」
 「――やましい事はしてません、ってええええぇぇ!?」
 ヘッドロックだ。弁解の余地も与えず、阿含はたちどころに一休の首を捕らえた。彼の足下に座っていたは片手で払い除けられ、よろめいた先で雲水がキャッチした。部屋には最早ミルクの甘い余韻など残っていない。背筋の凍るような阿鼻叫喚が響き渡るばかりだ。
 「阿含さ、ちょ、首入ってるー! ギブギブヘルプミーヘルプ!」
 「生まれて来た事後悔させてやる……」
 酷い会話だ。すぐにでも耳を塞ぎたい衝動に駆られ、は全身縮こまる。
 雲水は初め困ったような顔をしてリンチを眺めていたが、やがての手を取り、ドアの方向へ回れ右した。この状況で兄がいなくなったら、あの人の怒りは誰が収めるのか。眼差しで問いかけるも、答えてもらえる気配はない。は眉間を歪める。一方では廊下に向けて引きずられつつ、既に落ちかけている一休に手を伸ばして叫んだ。
 「一休、逃げて! 殺されないでいっきゅうううっ!」
 「お…俺はなんとか大丈夫っす……絶対生きて戻るから、も無事で……!」
 「なに名前で呼び合ってんだオラ。死期早めんぞ」
 残念ながら火に油だったようだ。
 絶叫が俄に大きくなり、バタン、とリビングの扉が閉められる。一休の尾を引く断末魔を区切りにして、は内側の光景を知る術を完全に失った。
 「なんであんな怒ってるんですか、あの人……」
 呟いた声は茫然としている。ミルクだけが理由とは考え難かった。
 「……聞くな。後悔する」
 「後悔って」
 「大人の事情だ、。行くぞ」
 雲水が静かに諭した。それ以上の追及を根こそぎ奪って行く言葉だ。
 の手を握ったまま、彼は底冷えする廊下の真ん中を歩いて行く。営業日の他は静穏な金剛軒が、今日だけは不自然なまでの雑音に揺れている。遠くで物の砕ける音がする度に、は身体を戦慄かせた。
 「やっぱり戻って止めた方が」
 「心配するな。ああ見えて頑丈に出来てる奴だから」
 そんなものだろうか。雲水の落ち着いた口調に一旦は朧な納得を抱くものの、やはり心配はつきまってならない。せっかく出来た友人が、知り合ったその日に自分の不手際で殺害されるだなんて、あまりにも忍びない話だ。
 「まさか、ほんとに殺されちゃったりしませんよね……」
 「…………」答えはない。
 後ろ髪を引かれる思いで幾度も振り返る。
 救いを求めて雲水を見上げるが、寄越されるのは緩い首の動きだけだ。もう何も訊くな、と言いたいのだろう。俯けた唇から、思わず長い嘆息が零れた。