聞き覚えのない声だ。
 振り向き、視線がかち合って、僅かな間。
 見開かれた眼の中で少年の瞳が右往左往し、覚束なげに宙を彷徨った後、はっきりと意志を持って中央へ戻って来た。
 その次の瞬間だった。瞬くより早く、衝撃がの身体を捕らえた。
 「―――え。ちょ、えええええぇっ!?」
 手首を掴まれ、利き腕を軽く捻り上げられる。
 唐突に右腕を咬む痺れ、それに牽曳されて訪れる、尖鋭な痛み。
 無言ののちに寄越されたのは、無慈悲で的確な暴力だ。攻撃を要所にのみ集中させ、余分な力を振るわない。荒事と縁遠い世界に生きるにはまるで想像もつかない速やかなやり方だった。
 (な…こ…じょ、冗談ですよねっ? 何かの遊びですよ、ねえっ!?)
 肩も肘もこれでもかと言うほど酷く軋んでいる上に、腰から上が釘を打たれたように固まっている。動かない。初対面の人間からここまで謂れのない暴戻を受けるなど未だかつてない経験だし、到底ジョークで済まされる事ではない。
 「動かないで下さい。暴れると、通報します」
 青ざめ震える耳元に、少年のものと思しき声が忠告した。
 「つ、通報って……ケーサツ…呼ぶ?」
 「そう。通信の通に報道の報で『通報』っすよ。普通分かるでしょ?」
 何処かで聞いたような物言いだ。冷静で、高飛車で、何かと人を見下したふうな。当たり前だと言わんばかりに少年が冷たい息を吐く。
 (なに言ってんのこの人!)
 通報されて困るのは、そっちじゃあないのか? ―――少年の手前口には出さないけれども、なんだか随分あべこべな話をしている気がして、は胸中首を傾げる。流しのステンレスに、目を丸くした少女が映った。
 「ご、ごめん。話が全然つかめないんだけど…」
 「窃盗の現行犯がとぼけないでください」
 窃盗。現行犯。恐ろしい言いがかりだ。これが所謂説教強盗ってやつなんだろうかと考えては益々首をひねった。単に頭がおかしいだけって可能性もあるけれど、それじゃ一層タチが悪い。
 「あの、なんか…勘違いされてるんじゃ…」
 「下手な言い訳は聞きたくないっすよ。人の店の厨房に不法侵入しといて、勝手にエプロンまで盗んで。見逃されるとでも思ってんですか、泥棒」
 「いや、だからそうじゃなくて」
 「そうじゃなくて?」
 低いオウム返し。一本調子だった囁き声がそこへ来て突然鋭くなる。
 シンクの縁に映った少年のつり目が俄に細められた。
 「言い訳とかじゃなくて、ホントに―――っい、づ!」
 言葉も半ばで後ろ手に関節をキメられ、の眉間がぐしゃりと歪んだ。流し台の角が腹に当たるような状況でサブミッションは卑怯だ。人道的な行いじゃない。
 「そーいうのを聞きたくないって言ってんですよ。アンタ、だれっすか?」
 「……飯店料理長」
 正確には元料理長である。ふん、と少年が短く返す。
 「名前」
 「……です、けど」
 わけが分からない。尋問、と言うよりは拷問の領域に片足を突っ込んでいる。
 こんなの理不尽だ! と思いながらそれを訴えかける勇気はやはりなく、元料理長はただただ閉口したまま小さく項垂れる。
 曲がりなりにもこの店の店員であるの立場からすれば、不法侵入者は確かにこの少年の方に違いないのだ。これについては珍しく強気な自信だって持っているし、訴えた場合の絶対的な勝算もある。しかしそこまでの確信があって、なぜこんな仕打ちに甘んじているのか。
 何よりの原因は、彼女自身の不甲斐ない性根にある。最近の一連の出来事で自身の負け犬精神を痛いくらいに自覚してしまったからこそ、は尚更空しく思う。その空しさへ反発する気力も沸いて来ない事がまた、彼女を惨めたらしめる一因なのだ。
 「嘘ついてないっすね? バレてからじゃ遅いっすよ、うちでは」
 「うそじゃ、ない。あ、空き巣でもない。ほんとにほんと!」
 答える間にも締め上げる力が強まって行くので生きている心地がしない。左手首がギリギリ鳴いている。離す頃には痣になっているだろう。
 わけ分かんないっすね、とこれまた聞き覚えのある口ぶりで少年が続けた。
 「泥棒じゃない。なら何の目的でうちにいるんすか、料理長」
 「目的とかないよ! ここに来たのだって、すごい無理矢理な成り行きで、」
 「……無理矢理?」
 無機質に輝くステンレスの表面で、少年の眉間がやや強張る。
 もしかして、今のはNGワードか。は恐怖と疑念の入り混じった視線を後方に送った。同時に、全身へかかる重圧からほんの少し解放される。
 「じゃ、アンタ……アンタが?」
 呟いた声に敵意の残影はない。
 固まっている内に、やんわりと拘束の解かれる気配を感じ取る。
 (一体なんだって言うんだ)苛立と僅かばかりの期待を込めて、恐る恐るが振り返った先には、果たして少年の顔があった。面持ちにそれまでの強硬さは消え、やや躊躇いを含んだ影のみが薄ぼんやりと差している。
 彼の目線はのそれよりも頭一つ、とまでは行かなくとも首一つ分高い。
 見上げた先の顔立ちから相応の年齢が知れる。16、7といった所だろうか。
 額の中央には神々しい佇まいのホクロが一つ。加えてキッと上がった眉毛の下に、小さな瞳が二つ、こちらを見ている。が彼を見るのと同じように、彼もを凝視していた。ガラクタと宝をふるいにかける鑑定家の目つきだ。
 「……料理長が、の娘っすか」
 「え」
 確信を込めて落とされた問いに、の表情筋がヒクつく。
 その呼び名を使う人間は、彼女の知る内でたった一人しかいないはずだ。
 (こ、この人、金剛ゆかりのひとォっ!?)
 色をなくし瞼を伏せると、それを肯定と取ったらしい。
 少年がわあっと声を上げての首に飛びついた。ぎゅう、と痛いくらいに両腕を回されて締め付けられる。早い話飛びつかれているわけだが、それがすごく無遠慮で苦しいひっつき方なのだ。ふらつく足取りで数歩後じさるを、少年は気に留めようともしない。
 「もーっ、そうならそうって早く言ってくださいよ! あんまりイジメてほしそーな顔してるから技までかけちゃったじゃないっすかぁ!」
 頭蓋が外れるんじゃないかと危ぶむくらいの勢いで、前後に首を揺すられる。
 「な、だ、だって喋らせる暇も」
 「アンタあの鬼の嫁なんでしょ? もっとハッキリ自己主張してくれないと。怪我なんかさせてたら俺が後で怒られるんすからね!」
 そう言って少年が詰め寄ったのをきっかけに、足下の安定が失われる。
 「へ? や、ていうかきみ、ちょっ……ま、はなし、まず」
 (待って、はなして。これマズイって!)
 言外にそう言ったつもりが、まるで伝わらなかった。同年の子供の体当たりまがいの抱擁に、中華飯店元店長のもやしのような体躯が耐えきれないだろう事は誰が見ても明白なのだ。
 立ち木が根元から折れるように、バランスが崩れる。
 よろめきざま、背中に硬い感触があった。
 (あ。だめだ、調理台……!!)
 気付いてからでは遅いのだ。ひっ、と悲鳴を上げては目を瞑る。
 殺しきれなかった反動に押された身体が深く傾く。背中からコンロに突っ込んで行く。点火こそされていなかったが、そこへ乗っている調理用の大鍋だけは目を背けようもない現実だった。少年の顔も白くなる。このままでは二人して大鍋に突撃せざるを得ない。後頭部打撲か、裂傷か。出血の有無に差こそあれ、どっちみち「すごく痛い」って事に変わりはないだろう。
 「いづ…!」
 「わぁああっ!?」
 二人の声に被さるように、ゴン、と頭上で鈍い響き。
 続いて複数の金属の派手に転がる音が聞こえた。はずみに、何か重い金物がひっくり返されたようだ。嫌な予感がする。
 思わず目を開け、は天井を仰ぎ見る。蛍光灯の光で白んだ世界に、数瞬、滑らかな銀幕がかかった。水のカバーだ。自覚、した直後に、
 『ぎゃああああああっ!!』
 何の宣告もなく滝壺にぶち落とされたような冷たいショックが落ちて来る。
 大鍋一杯の水が、二人の頭上に降り注いだ。