(家から出してもらえないのも、一日中皿洗いするのも、)
 (これで。六日目だ)
 半ば軟禁に近い形で金剛軒に閉じ込められて、もうそんなに日が経つのだ。
 水を切った丼鉢を厚手のタオルで拭い、食器立ての脇へ重ねながら、そろそろ適応性の働き出す頃だとは思った。実際の所、彼女の内では既にこの状況への耐性らしいしぶとさが出来上がりつつある。それは有難い半面恐ろしげでもある、には如何とも処理し難い奇妙な感覚だった。
 (慣れて来ちゃったって、認めるのもなんか癪だしな)
 陶器と陶器の触れ合う神経質な音が厨房の空気に波紋を立てる。初めこそ勝手の分からない厨房に怯えて仕事をしたものの、習慣になれば何の事はない単純作業だ。丼に傷を付けない事、縁を欠かさない事、その二つに留意してさえいれば良い。叱られもしない。たまにふらりと来ては急かしを入れる意地悪い男がいるが、彼も彼の兄に手綱を引かれて退場するので大した問題にはならない。
 鼻歌を歌いながらの皿洗いも、半ば日課になりつつあるくらいだ。こうして一週間が過ぎ、一月が過ぎ、一年二年と過ぎ去って行くのだろうか。考え、は人知れず身震いする。未だになかなか不安な箇所だ、そこばかりは。
 「おい、の」
 水音を遮って低い声が響いた。
 入口に、白い作業着にロゴ入りの黒のエプロンを引っ掛けた一人の青年が立っている。坊主頭に乗った料理長の帽子に目を留めてから、は作業の手を止める。
 「ああ、もう…。金剛さんまであの人みたいな呼び方するのやめてくださいよ」
 顔かたちと声はまったく相似した兄弟だ。
 (呼ばれるだけでもどきどきするんですから、ホントに)
 内心安堵の息を吐いて、は固まった表情をゆっくりと解した。
 「すまない。毎回つい名前を忘れる」
 「……金剛さん…。本気で?」
 「冗談だ、そんなに怒るな」
 おはよう。困ったような顔をして(それが彼の癖なのだ)笑う雲水に、おはようございます、とも一つ小さなお辞儀を寄越す。
 いつ何時も礼節を忘れない彼が、あの男と同じ腹から生まれたという事実に、は未だ順応出来かねている。彼等がたとえ一部であれ遺伝子を共有して生まれて来た存在だなんて、そんな話はいっそ下手なオカルトよりも嘘くさいものだ。まったくふざけている。
 「今朝はずいぶん早いんですね。店の掃除、もう片付いたんですか?」
 「いや、様子を見に寄っただけだ。少し心配になったから」
 「? 皿なら割ってませんよ、ホラ」
 「そっちの心配じゃない。体調の事を言ってる」
 「体調って、だれの」
 「お前以外に誰がいるんだよ」
 多少げんなりした声だ。
 の茶色い瞳がくるり、と緩い円を描いてまた元の位置に戻る。
 「こんな会話、前もしませんでしたっけ」
 「してない…と思うぞ。阿含とじゃないのか?」
 「…そうかなあ」
 言われてみればそうだったかもしれない。何となく既視感がある。
 嘆息と共に苦笑して、雲水は惚けたの頭をくしゃくしゃ撫で転がした。
 「暢気なもんだな。今の仕事、辛く思わないのか?」
 「ええ? なんでそんな」
 「顔色悪いぞ、近頃」
 「近頃ってほんの五日じゃないですか。平気ですよ、もともとこんなだし……あ、皿洗いに温水使えるのも初めてで嬉しいです!」
 「そう…か。嬉しいか。ならいい」
 下唇に人差し指を当てるのは、彼が何か思案する時の仕草だ。
 綺麗に切り揃えられた爪に目をとられて、は自身の半開きで固まったままの口を忘れる。内心、器用そうな長い指をしていると、感動した。
 「でも、何か困った事があったら遠慮せず言えよ。俺の事は兄だと思え」
 「あはは、兄って! 今でも十分それっぽいと思ってますよー」
 金剛さん頼りになるし、やさしいし、常識人だし―――思い当たる長所を端から上げ連ねて行くを制する術もなく、雲水は些か困惑気味で突っ立っている。胸中では笑い飛ばすべきか否定するべきか、と決めかねているのだが、はそこへまるで気付かない。
 (いい人だよ。この人は、兄さんていうか、仏様みたいな)
 飯店元店長にとって、雲水という『誠実』かつ『まっとう』な人格は、この金剛軒という限定された空間における絶対的な救いだった。無法地帯にもたらされた唯一の戒と言ったって過言じゃあないだろう。
 五日前には初対面だった相手からそれだけの信頼を作り上げる男だ。金貸しなどやってはいるけれど、高徳な人間には違いない。
 「あれっ。金剛さんたちって、そういえば…」
 言いかけ、口を噤む。
 いつの間にか頭上を覆ったその影に、はっとしては眼を上向ける。
 対面したのは、邪心たっぷりの―――そのくせ表向きだけは好青年らしく爽やかに微笑む男の顔だ。の眦が薄く引き攣る。
 「おはよう、の娘。無駄に元気そうじゃねえの」
 「……おはようございます。おかげさまでたくさん元気です」
 「日本語おかしくなってるよお前。まだ名前で呼んでくれないんだ?」
 「あなたなんか、ずっと『あなた』で十分です」
 私が金剛さんっていう人は雲水さんだけです。怒気混じりに吐き出して面を背けると、頭上の男、阿含が押し殺すように笑った。
 噛み合ないやりとりの応酬に憂鬱な顔をするのは、結局いつも彼の兄だ。
 「…。そんな呼び方しても、そいつが喜ぶだけだぞ。やめておけ」
 「よ、よろこ?」
 「耳貸すな。それよりさっきの続きは」
 「続きって…、あ。ああ」
 彼が促しているのは、どうやら先程の話の続きらしい。
 は軽く頷いて、あのですね、と口を開いた。
 「ほら、金剛さんたち、自分の店持ってるのにどうして金貸までしてるのかと思って。どっちも手つけようとすると、大変じゃないですか?」
 問いに、雲水が目を大きくする。阿含も隣で肩を竦めた。
 なんだそんな事、とでも言うようだ。二人揃って対応だけは似ている。
 「あー、中華屋は副業でやってんだよ。本職は金融の方」
 「馬鹿言うな。店が本業、あっちが副業だろうが」
 「俺は違ぇし」
 「お前も俺もだ」
 言葉を切り、双方睨み合う。
 この辺りに主張の食い違いってものがあるのだろうか。
 「大体使わねえ金持っててどうすんの? 投資してこその資金だろ」
 「俺は出来るだけ堅実に貯めたいんだ。お前みたいに恨みを買いたくもない」
 (うん。どう考えても、カタギのがいいよなぁ。世間の風当たりとか)
 わざわざブラックな世間体を背負ってまで金融に傾倒するわけは分からないが、とりあえず資金繰りは上手い事やっているらしい。割合、店内の設備は豪勢だ。
 「じゃあこの店、二人っきりで回してるんですか?」
 余程の労力だろうが、この二人なら出来なくもないとは思う。
 しかし雲水は首を縦に振らず、いや、と短く呟いてから脇の壁に貼られたカレンダーへ視線を向けた。もつられてそちらを見る。第三土曜の欄に大きな黒丸がつけられているのが映った。
 「もう一人、住み込みで働く奴がいる。今は留守だがもうすぐ…」
 「出前の分際でなっげぇ暇もらってっからな。ババアの法事とか言って」
 「分際なんて言うな。あいつはお前と違って家族に誠実なんだよ」
 「誠実? あいつの腹黒さ知ってて言ってんの、お前」
 「黒いわけないだろ。あんな素直な顔で」
 「素直に黒いからあの顔なんだよ。お前いつか騙されるぞ、あれみたく」
 あれ、が指している対象に気付き、は眉を顰める。
 「さらっと人の古傷抉んないでくださいよ……。気にしてるのに」
 「そうだ阿含、配慮しろ」
 「うざ。てめえら組むと二倍ウザイから離れろ。調子乗ってっと飯抜くぞ雑用」
 「め、飯って……横暴だアンタ! 人権侵害!」
 「ふーん、人権なんて難しい言葉知ってんだ。えらいね」
 「〜〜〜〜ッ!!」
 こんな塩梅で過ごす内に、金剛軒での暮らしも板についてしまうのかもしれない。考えると、例の記号化し難い感覚が込み上げて来てうんざりした。
 このまま慣れてしまうのは、やはり何か悔しい気がするのだ。