総体のチョイスに問題はなかった。
 シャツは意外にもまともな無地を選んでいる。その下のやけにぴったり来るジーンズも、踝までしか隠さない靴下も許容範囲の物だった。
 金剛の趣味に文句をつけたいわけじゃない。ファッションセンスに関しては、どちらかと言えばの方が疎いくらいだから。
 着る物があるだけ、まだマシな境遇だという事も理解はしていた。素っ裸で生活させようと思い立てば、実際に強要出来得るだけの力を金剛は持っているのだ。それをわざわざ上下とも新品で揃えて寄越してくれたのは、彼の善意故と受け取っても過分じゃないだろう。
 だが、理屈云々で我慢出来るのはせいぜいこの辺りまでだ。
 (だってこれは。明らかに……これは)
 舌の先で言葉を探りつつ、こめかみに指を押し当てる。
 言われるまま着衣を済ませてみたものの、こいつだけは納得出来ない、という一着がの思考を曇らせていた。
 債鬼の怒りを買わないためには、この不満をどう言い出せば良いのか。いや、やみくもに恐れながらぐだぐだ思案するよりはハッキリ主張した方が効果的なのかもしれない。考えれば考えるほど裏目に出る、という自身の惨めな性質については、この小さな料理長にも何とはなしの自覚があるのだ。
 「……家内労働でもさせて、こき使うつもりなんですか?」
 振り絞るように呟いて、が眉間に力無い皺を数本寄せた。
 廊下に停留する空気が喉に冷たい。起きがけにも関わらず生気の薄い顔だった。皮膚の内側の血の道すらも透けて見えそうなほどに青白い頬に、ぼんやりと灯った疑惑の色。あるいは、それはここ最近の彼女に限定して見られるようになった、幸薄い特徴の一種なのかもしれない。
 上目で睨む少女をまるで相手にもせず、金剛は僅かに目をすぼめた。
 目下の女と言葉を交わすのが心底面倒臭いのか、それとも単に馬鹿にしているだけなのか。両方有り得る、とは思う。そのどちらも不愉快な事には変わりない。
 「何をどうしたらそういうオモシロイ結論に行き着くわけ」
 「これ見りゃ誰だってそう思います。こんな、……全然、わけわかんないもの」
 わけわかんないもの、と彼女が指したのはエプロンだ。わなわなと揺れる小さな肩にひっかけられている、一見すれば何の変哲もない、ただし飯店で見慣れた空色とはまるで違う隅から隅まで深く墨色に濡れた生地。質の善し悪しまでは分からないが、とりあえず耐水性だけは良いふうに見える。
 「なんで。わけわかんないって言うお前がわけわかんない」
 「だって、だってこれ! 明らかに業務用のじゃないですか!!」
 「家庭用なら良かった?」
 「そういう意味じゃありません!」
 胸元に記された白銀のロゴが決定的だった。
 筆文字で『金剛軒』とある。他人から見れば単なる漢字の羅列に過ぎないそれも、を絶望のどん底へたたき落とすには十分な威力を秘めていた。
 ブラックジョークもここまで来るとタチが悪い。悪過ぎていっそ本物みたいだ。
 (いっつもひどい嘘しか言わない人なのは知ってたし、もうずっと諦めてた。でも今度のはさすがに冗談きついよ。人のエプロン捨ててすぐにこんなのって)
 「それに、こ、こんごうけんって。き、聞いたこともないしっ」
 「そりゃそうだろ。うちのナワバリ、のとことは全然被ってないから」
 「…なわばり?」
 「あー、お前の場合被ってても気付かねえか。経営とか人任せっぽいし」
 「…………」
 「うわ。図星かよ」
 図星どころか、その人任せが祟った末にこの大借金である。
 (どうせ、そうだよ)言い返す言葉もなくは静かに眉根を歪めた。
 見下した目をしてさも楽しげに金剛が笑い出す。息だけの低く掠れた笑声だが、尾を引く長い譏笑だ。ひとしきり笑い終えた後、彼は事も無げに告げた。
 「それ。金剛軒っての、うちの店の名前」
 「…は?」
 「ほどじゃないけど、一応由緒正しき中華屋やってんだよ。今が五代目」
 (由緒正しき、中華屋―――ご、五代目?)
 目眩に押され、数歩後ろへよろめく。は額を押さえた。ドンと鈍い音がして、廊下の壁に背中をぶつけたと分かる。感覚はなかった。
 「う…、そだ! アンタみたいなカタギと縁なさそーな顔してる人がっ」
 「そのカタギと縁なさそーな男に買われたんだろ、お前。まだ自覚ないわけ」
 「買われ……そ、そりゃそうだけど……」
 やっぱり頭弱いね、の娘。生温い声色が鼓膜を揺らした。
 暗い歓喜を滲ませた瞳が緩くしなって、笑みの形を作る。それだけでも少女の心には卒倒しそうなほどの衝撃だ。恐怖だ。ホラーだ。トラウマだ。ハルマゲドンだ。死んでしまいたいなどと考える以前に死んでしまうかもしれない。
 「恐い顔すんなよ。な、すげえ笑えるだろ?」
 (なにが、笑えるって)
 底意地悪くニヤニヤしたままで、金剛が囁いた。この悲劇の何処に笑える要素が見つけられるって言うのだ、彼は。唇の端を震わせながら、は必死でエプロンの裾を握りしめた。冬だというのに掌が薄らと汗ばんでいる。
 「飯店料理長ともあろう者が、敵の店の雑用だぜ。雑務要員。先代の墓に持ってく話題としちゃ最高じゃね?」
 「な、雑用って……誰が!」
 「タダ働きのお前以外に誰がいんだよ。デカイ声出すなバカ」
 近所迷惑。荒らげた声を押し戻すように、唇へゆっくり人差し指を当てられた。
 この場合悪いのは自分ばかりじゃあないはずだ―――確信的に思いながらも、常識的な突っ込みには逆らえない。すみません、と膨れっ面のが寄越した謝罪に金剛はまた一つ満足げな笑みを見せ、口先から指を取り払った。余裕綽々の所作に一々神経が波立つ。
 「言っとくけど。うち、働かない奴に出してやる飯とかないから」
 「……それは強制的に働けってことじゃ」
 「ああ、一応自分の立場くらいは把握出来るんだ? えらいね、ちょっと感心した。でもそこまで分かってんなら、さっさと厨房行ってあいつに仕事聞いた方がお利口なんじゃねえの」
 畳み掛けるようにそう言って、彼はまだ承諾もしていないの首根っこを掴むと、悠長に歩き出した。
 何処へ行く気だこの持ち方はなんだ、と叫びたい思いは山々だったが、何しろ怒りを買うのが恐ろしくて口を開ける事も出来ない。
 (あいつって、なに、だれ!)
 眼差しだけで訴えたがどうにか通じたらしい、金剛が「んー」と曖昧な相槌を打った。打ちながらも、足の方はスタスタ廊下を蹴り続けている。
 「うちの店長、俺の兄貴なの。お前も昨日見ただろ。雲水って、頭丸めてるやつ」
 (兄貴。あの親切な坊主の人が、この人の兄弟?)
 なるほど、道理で瓜二つなわけだ。
 内心腑に落ちない部分が―――たとえばそれはやさしさや言葉遣いや誠実さといった、この極悪を絵に描いたような債鬼に求めた所で、きっと一生どうにもならないファクターの累々だ―――幾つかありつつも、は首だけでうんと頷いた。
 「結構めんどい性格してんだよ、あいつ。なんつーか、手ェ抜けない人種? 今朝もクソ早起きしてスープの仕込みとかやってるし」
 「…………」
 「こんな店に愛着沸く精神がマジ信じらんねえ。せめて母屋建て替えろっつってんのに無視するわ妙なとこでケチるわあのハゲ…」
 「……はあ」
 「まーこっちはこっちで結構幸せだし? 特に文句はねえけどな」
 「し、しあわせ、なんですか?」
 宙づりのが目を丸めて問い返すと、金剛はをにっと口元を笑わせて応えた。影を潜めた邪悪さの代わりに、何やら誇らしげな色を噛み締めた表情だ。
 「そ、現状が幸せ」
 「え。げん、じょ…て」
 「……現在の状態。の娘は常用漢字も教えられてないわけ」
 「いっ、いや、ちが。そこは分かっ…!」
 「そんな終わってる頭ならついてない方がマシじゃねえの?」
 何ならすげ替えてやろうか、と本気とも取れる発言を受けて、は千切れんばかりに首を振った。冗談、と金剛は言うが、腹の内は分からない。適当にからかわれているだけならまだ有難い気がする。
 (だあーもう、この人と意思疎通とか出来るわけないって!)
 彼の言葉と言うのは何となく掴みやすい印象を与えるくせに、まるで物事の核心には触れてくれないものだから、聞いた後に残るのは歯痒い余韻ばっかりだ。本当によく分からない。余程捻くれきった性格をしているのか、行き過ぎた天の邪鬼なのか。全部が全部、事実なのか。
 (どうなっちゃんだろう。これから)
 (店、なくなる前にカッちゃんたちに連絡して動かしといてもらわなきゃ)
 (冷蔵庫の中身入れっぱなしのままじゃ虫わいちゃうし)
 (とんでもない時期にとんでもないことしてくれたよな、この人……)
 飲み込みきれず重い息を吐く。
 シャツの襟首を捕まえられたまま項垂れれば、首が絞まるのは当然の結果だった。
 うええ、と呻くに金剛が怪訝そうな顔を向ける。
 (……ホントに。どうしてこんな目ばっか見るかなぁ、家は)
 それが自身の余生に与えられた命題である事を、はまだ、知らない。