「おなか、が、すいた」
 天井の空白を見つめてぽつりとが呟いた。
 嗄れているわけではないのに、酷く乾いた声音だ。
 疲れているのか、と雲水は首をかしげる。彼女は年がら年中こんなふうに欲望の赴くまま好き勝手な事を言っているしまりない女なので、こういう些細な一言ぐらい普段はあまり気にかけず流すのだけれど、今日はなんだか様子が違う。ように思う。
 ソファの上に、はいる。何処かぱっとしない灰色の椅子の上に、死にかけの金魚みたいに腹を上向かせて寝ているのだ。なんとかいうブランド品らしい(けれど自身、それが何と呼ばれているのか知らないと言う)ミニスカートの裾から、程よく引き締まった素足を曝け出して転がっている。そのままグラビア紙の裏表紙にでもなりそうな痴女めいた格好なのに、彼女がするとだらしない幼子のようにしか見えないから笑えた。よくもあんな寒々しい物を履いて冬が越せるな、と半ば呆れ混じりの感心を覚え、雲水は目を瞬かせる。昨年もこんな感想を持っていた気がする。とすると、彼女は一年前もスカートで越冬したのだろうか。今日のように。
 「何かないんですか。私のエサになるような物は」
 なんでもいいんですよ。今なら、なんでも。
 かさかさに乾燥して水分を失ったカンパンみたいな感触のする声で、が先程の続きを言う。今度は確かに意思を持って同室の者に呼びかけていた。黒いデスクチェアの背にもたれて、雲水はゆらゆらと後を振り向く。冷蔵庫は空だぞ、なんてわざわざ彼女だって言われなくても分かっているはずだろうにと考えながら、それでも仕方なく口を開ける。
 「今阿含が買いに行ってる。もうすこし我慢しろ」
 「もう少し。少しって、あと何分ぐらいで帰って来るんです、彼は」
 「さあな。ゆっくり歩いて20分弱ってとこじゃないか」
 「神速で帰れと伝えてください」
 「あいつが俺の言いつけなんて聞くわけないだろ」
 「聞きますよ。あの人、君の事なら憎からず思ってるはずですから」
 「気色の悪い事を言うんじゃない」
 「『気色の悪い事を言うんじゃない』?」
 からかいを含めたオウム返し。
 くふ、ふふふ、と奇妙に篭った笑い方をしてが身を捩る。
 何がそんなにおかしいのだろう。聞いてみたくもあったが、聞いたら聞いたでまた不愉快な気分になるだけだろうと思えばそれ以上舌は動かなかった。開きかけた唇を元通りに閉じ直し、雲水は再び机へ向かい出した。
 「そういえばさっきからカリカリカリカリと。何をしてるんです、そこで」
 「勉強だ。お前こそ何をしてるんだよ」
 「見ての通り寝てます。雲水くんもご一緒しますか」
 「遠慮する」「二人ならなんとか寝れますよ」
 「俺は勉強がしたい」
 「女より学業を優先ですか。まあいい、君らしい事だ、それも」
 上っ面だけ撫でていれば如何にも残念そうな呟きに聞こえる。しかしその根幹に落胆の色がないのを知っているので、雲水は彼女の言葉を気に留めたりしない。右から左へ聞き流す。それくらいが丁度良い。
 「お腹が減りましたねえ、本当に」
 ソファのスプリングを派手に軋ませてが寝返りを打った。彼女はとうとう天井と睨み合うのを諦めたようだ。下手すると、二時間くらいそうしていたんじゃないか。指摘しかけて雲水は思いとどまり、そして短い溜め息とともにかぶりを振る。こんなふうなどうでも良い内容ばかり冷静に記憶している自分が、賞味な話、気持ち悪かった。何となく背後から感じる視線も相まって、心持ち落ち着かない。今朝口にしたメロンパン(最後の食料だったため、三分の一にカットしたのを分け合って食べた)がまだ胃の内側をどろどろ流れているような気さえする。嫌な具合だった。
 「減ったと言うから尚更減った気がするんだ。黙って堪えろ」
 「心頭滅却すれば、ですか? 仏教思考ですねえ」
 「どうだって良いだろう」
 「そう、それだ。雲水くんって、何かと嫌がりますよね。どうでもいいこと。野心とか顕示欲とか性欲とか、そういう煩悩感じた事もないように見える」
 「全くないわけじゃない」
 「人並みってわけでもないでしょう」
 でしょう、なんて誇らしげに言われても、返すべき反応が分からない。一体どの辺りまでを基準にして人並みの枠を設けたら良いのだろう。相槌を打つにも困り果てて、雲水は塞ぎ込んだまま眉間を寄せる。背後のソファから笑い混じりの吐息が届いた。
 「私はね、だが、君を健全でまっとうな人間だとは思わない。十分歪んで不健全な人だと認識していますよ。人並み以上に。だから、いつも疑うんです」
 何を疑うのかと訊けば、「何だと思います?」とやたら嬉しそうな声で返される。まともな人間は質問を質問で返したりなんかしないから、彼女も十分世間が規定する所の『まっとう』を逸脱しているに違いない。俺は意味もなく頭を掻いた。なんだか、物凄くこちら側に不利な会話をしている。
 「分かってるくせに分からないふりしてる態度も異常ですよね。恐い恐い」
 「俺が異常なら、お前だって異常だろう」
 「そうなると阿含くんもお仲間ですか。彼、キレて否定するでしょうけど」
 そうだな、キレるだろうな。同意しながら、頭ではぼんやりと異常者三人の共同生活を思い浮かべてみる。シュールな光景だが、何か面白い。悲壮感ってものがまるで感じられない。
 「実に良い具合にイカレてますよ。君も彼も」
 「どうしてそこにお前を含めないんだよ」
 「同じ異常でも、君らの次元と私の次元は完璧に隔たっているからですよ」
 「セットにするな」
 「しますよ。君らの異常性はひとまとめだからこそ起こり得るんだ」
 知ったような口を利くのは彼女のどうしようもない悪癖の一つである。理解はしていても癪に障る事には変わりなかった。勉強の邪魔だからもう黙れよ、と言うと彼女は悲しそうに(やはりこれも上っ面だけで)そうですねえ、と小声で呟いた。
 「私もいい加減黙りたいんですけどね、どうにも口寂しくて」
 「…うがいでもして来たらどうだ」
 「そうだ。キッチンにまだ一本残ってましたよね、バナナ。吊るしてあるのが」
 「あれは熟れ過ぎてるぞ。食えたもんじゃない」
 「多少キリンになってても我慢しますよ。本当に飢えてるんですから…」
 裸の足をぺたぺた鳴かせて、がキッチンへ消えて行く。やがて冷蔵庫の脇からフックをいじるのが聞こえて来た。あんな皮膚病みたいになったバナナをよく食う気になれるものだ。雲水は虚ろに感心する。ペン先を走らせている間に、水道の蛇口を捻る掠れた音が壁を伝って響いた。ややあって、渋い顔をしたが帰って来る。(ほらみろ、不味かったんじゃないか)笑いそうになるのを必死で堪えるが、堪えきれなかった部分が口角に現れる。
 「腐ってはいなかったみたいだな。美味いか、
 「そこをわざわざ聞いてくれますかねぇ…」
 食いかけの黒ずみバナナを苦々しげに睨みつけ、は顔を歪める。小生意気な彼女には不釣り合いな、率直過ぎる仏頂面だ。我慢しかねて雲水は噴き出した。笑うところか、とでも言いたげに細い眉が吊り上がるのがまたおかしい。それでも食いかけた物は自ら処理する覚悟なのか、はもう一口バナナへかじりつくと、無言でそれを咀嚼し始める。何とも言えない複雑な顔だ。
 そうして五秒ほど経った頃、不意に彼女は歩き出した。ただ闇雲に室内を歩き回るのではなくて、真っ直ぐ雲水へ近づいて来るのだ。歩みは、彼女の膝と雲水の椅子とがぶつかる一歩手前で停止した。何事かと思って暫く観察していると、向かい合う形で肩に手を置かれた。
 「何をするんだよ」
 訊いても答えはない。は緩く腰を曲げ、頭一つ分くらい高い所から雲水を見下ろす。深淵の色をした瞳が乾いた眼にぽつんと浮かんでしている。その凝縮された闇は、無機質な室内灯すら透明な粒子に還元して飲み込んでしまうのだ。
 雲水は何か言おうとした。抵抗か制止か、その辺りのまっとうな言葉を吐こうとしたつもりだったが言えなかった。出かかった声を遮り―――というよりは聞く気もないんだと言うように、は雲水の唇を塞いだ。最初は柔らかく押し当てて、徐々に舌先でその入口を解きほぐし、中に侵入して行くやり方だ。こなれているなと思った。雲水はいつだかの事を蛇に似ていると言った日があったけれども、直に感じてみる彼女の体温は予想していたほど低くなかった。そういう事を考え考えしている間に、彼女の舌が雲水のそれに触れた。単に予め用意していた目的を遂行するための手段であって、特別劣情をそそる気があっての行為というわけではなかった。
 『それ』はの温かい舌を滑り、やがて雲水の中に注がれた。どろりと不思議な感触のする融点ギリギリの固体物で、明らかに人間の分泌物とは違うふうだ。これは何だろうと雲水は思い、そして当然、答えはすぐに探し当てられた。彼女が握っている、あれだ。おかげで一度は飲むまいとも考えたのだが、結局相手のテクニックに負けた。飲んだ。絡みついて尾を引く後味だった。喉が音を立てて異物を嚥下すると、それを合図にしたようにさっと唇が離れた。一つにくっついていたものが二つになって、また鼻先に元の寒々しさが戻って来る。冬の、二人きりの部屋の冷然とした空気だ。
 「甘ったるくてまっずいでしょう?」
 囁き、艶のある睫毛がにっこり微笑む。あんまりにも屈託ない仕草なので、雲水も毒気を抜かれて思わず頷いた。でも次の瞬間には首を振って、打ち消していた。
 「……味は分からなかった」
 「分からなかったって。やっぱり君、異常ですよ」
 「味覚がか?」「それ以外もです」
 少しの間彼女は不満そうな顔をしていた。曇天の夜みたいな目で眼前の喉元だか鎖骨だかを眺めては、何をするでもなく眉を寄せている。機嫌を持ち直したのは、雲水が彼女のほっそりした手を取ってからだ。大きな瞬き、その後できゅっと小動物のように丸められた双眸が彼を見下ろしていた。普段は蛇か邪神かと疑りたくなる態度ばかり取るくせして、こういう時だけ無防備な顔をしてみせるのだから女は意外だ。
 「この指で喉を裂かれて、食われるのかと思った」
 人工的なカーブを描く爪の一つを押さえながらそう言うと、は再度瞼をぱちっと閃かせた。与えられた言葉は彼女の予想の範疇を越えていたらしい。
 「冗談ですか」
 「本気でそういう顔をしてたんだ。お前の爪は長過ぎる。たまには切れよ」
 「嫌だな、人を解体するために伸ばしてるわけじゃありませんよ」
 「なら何のために」
 「痕をつけてやるためです。君には、理解出来ないでしょうが」
 首を傾げる雲水に、は笑って「時期が来たら教えてあげますよ」という意味深でわけの分からない回答を寄越した。彼女は無知な人間を見下して笑うほどの悪趣味でもなかったが、この方面に不通な雲水を眺めるのだけは楽しくて仕方がないようだった。わざわざ回りくどい答えを与えるのも、その楽しみの一環なのかもしれない。
 「そんな答えじゃ意味分かんねーって顔してますね」
 「ああ。多分時期が来ても分からないと思う」
 「じゃあ手っ取り早く時期を作っても良いですよ。一緒に寝ます?」
 そこで、と淡白な誘いと共に指差されたのはソファだ。彼女の暗示せんとする箇所が何となく予測出来て、雲水は首を振った。
 「なんだつまらない」
 「阿含が帰って来るだろう」
 「帰って来なければ最後までしちゃうんですか?」
 「しないだろうな」
 「ストイックですね。そういうとこ、好きですよ。本当に食べたくなるくらい」
 「なんで好きだと食うんだ」
 「私の中の性欲と食欲は同義に近いからです。ま、ニアリーイコールですね」
 「……頼むから食うなよ」
 「勿論。君みたいな骨っぽい体、喉に詰まって面倒そうですし」
 篭った笑い方を零しながら、がソファに倒れ込む。虚脱感とも不満感とも言えない未分化の気持ち悪さを口中で噛み殺して、雲水はデスクチェアに背を預ける。
 その時やっと待ちわびていた玄関の開く音がして、阿含が帰宅した。彼は騒々しい事この上ない動作で靴を脱ぎ散らかすと、半ば乱入するような形でリビングへ入って来た。温度差の所為で酷く曇ったサングラスを忌々しそうに外し、拭くのも億劫そうにテーブルの上に置いて、それから離れた所にいる二人を見比べた彼が、最初に発した言葉と言えば「なにやってんの」だった。妥当な反応だ。雲水は少し間を置いてから、ずっと勉強してたんだと言った。の答えは違った。
 「君が買い物行ってる間に残ってたバナナを食べてました。お兄さんと二人で」
 「あぁ? んだよそれ…」
 「だけど腐りかけだったんです。芯までドロドロ。食べてから後悔しました」
 彼女はそれを普段通りの涼しい顔で言ってのけた。あまりにも自然な受け答えで、あまりにも周到に出来ていて、それでいて疑う余地がないのがまた恐い。何も知らない第三者、阿含は、これを丸ごと信じた。ふーん、といつも通りの至極どうでも良さな調子で呟いてから彼はコートを脱いだ。生地の吸い込んだ真冬の冷気が部屋中に広がって、弱々しく漂っていた暖房の余韻を掻き消して行く。
 「食ってからとかバカじゃねーの。皮剥く段階でよく確かめとけよ」
 「そうですねえ。次があれば、そうしましょう」
 素直に頷いてはソファを立った。阿含をそこに座らせてやるためと、茶を入れに行くためだ。彼女の言う「次」なんて物はなければ良いと思い、雲水は目を閉じた。思いながら煮え切らない部分があるのも事実でそれが嫌だった。
 今後暫くは買わない事にするバナナの代わりに、何を買って来たら良いものか。思案に暮れていると、荷物から解放された弟がソファへ直行せず近寄って来て、彼の坊主頭を乱暴に撫でた。弟は彼の事を雲子ちゃんと呼ぶ。出来れば矯正させたい徒名だが、相手が相手なだけに言って聞かせる方法を取るのは難しそうだ。
 「なあ。今日あれ作れよ、素麺炒めるやつ。なんつったっけ」
 「チャンプルーか? 昼飯用だぞあれは」
 「関係ねえよ。早くて美味けりゃ」
 そう言う阿含が放り出したレジ袋には、素麺とツナ缶と万能ネギだけが詰め込まれている。空腹は判断力を鈍らせると言うが、本当かもしれない。彼は本日一食分しか買って来なかったのだ。
 「そこ、あんまりベタつかないでください。煎茶と玄米茶どっちが良いですか」
 の、少し棘を含んだ声がリビングを通り抜ける。煎茶、と二人の声が同時に応答を返すと、キッチンには急須とやかんをカタコト言わせる音だけが響き始めた。
 異常者三人の生活がどうしてこんなにも穏やかなんだろうと考え、雲水は頭上の弟の手に自分の手の平を重ねてみる。行動に意図する部分はなかった。北向きの所為でほとんど日焼けのない壁を見つめていると、どうでも良い事ばかりが脳裏を過るのだ。
 (刺すために爪を伸ばすのは、悪趣味なものなんだろうな。やっぱり)
 窓の外を明るい緑のミニバンが走り去る。光が窓辺を照らし終えるか終えないかの際に、遠くでやかんが泣いた。阿含が欠伸をしながら雲水の背中に寄りかかった。自分達がひとまとめで異常と言われるわけがちっとも分からない、と雲水は思った。












06.12.12