※雲水が弟に対してどろどろぐるぐるしてるのが主な話です。ご注意!
「死ねば、良いんだ。死んだ方が良いんだよ」
捨て台詞と言うにはあまりにも容赦がなかった。
バカ、と言い残して女が踵を返す。
咽喉下に呼吸を押し込めたまま、遠ざかる黒濡れの背中を見送る。
躊躇ない足音が鼓膜を通過してくれるのを、その余韻すらも完全に立ち消えるのを待って、ふうと短い息を吐く。
一体何の為にこうも疲れているのか分からない。いや、実際の所は分かっているくせに見ないふりをしている、という線が濃厚だ。
見たくないと思うと、対象物がそっくりそのまま視界から消えてしまう馬鹿な人間も世の中にはいるんだ―――と、いつか彼女が言っていた。
あの時も、確かにつり上がった目をしていたはずだ。何についてあれほど怒っていたのかは覚えていないが、もしかすると、今日と同じような話をしていたのかもしれなかった。無論単なる想像だ。
『君ってさぁ、何なの。いつも弟の尻ばっかり追いかけ回して楽しいの』
鋭い声が発端だった。
混じり気のない本音の中に、狙い定めてほんの少し、異物を混入させる。
純粋な悪意があってやっているのか、それがお得意のやり口だとは知っていても、やはり聞く度にドキリする。
誤解を受けそうな言い方はやめろよ、と当たり障りのない答えを返して、俺はいかにも心外そうな顔を作った。
申し訳程度に眉を顰めてみせるのも忘れない。可能な限り哀れっぽく見えるように、情けなく映るように、努める。すぐにそれと察せる演技の表情であり、同時に戦意のない事を訴える表情だった。
『誤解? よく言うね。君にはまだホモの嫌疑がかかってるんだよ』
女は、しかし怯む素振りすら見せない。憎たらしげな口ぶりからして、あちらに痛手を負わせる意志があるのは明白だ。
(咬みたくてウズウズしてるんだな)俺に向かわせたその嗜虐性は、同時に自分へ向けた物でもある。対象が不確か過ぎるから、やり合えばお互いただで済まないのは間違いない。理由や意図が何であれ、喧嘩なんて面倒は謹んで御免被りたかった。俺は阿含とは違うのだ。
低く喉を鳴らす、微かな音が頭蓋だけに響く。(上手くかわせるか?)
酷い捏造だな。笑い混じりに短く、そう言う。
出て来たのが案外普通の声で安堵する。
相槌を打つような調子で、チッと高い舌打ちが上がった。
女が爪先を苛立ったふうに動かして、灰色をした公園の敷き砂に抉れの道を造る。ひねくれている割に、行動は予想を裏切らない。わざと目につきやすい仕草をする時の彼女は、決まって不機嫌の絶頂だ。
視線を交えれば、実に隙のない速度で睨みつけられた。
『そういう強がってる所が気に食わないんだよ。弟の真似したつもり?』
俺を不快げに見下ろすの女の目は、凍った赤を孕んでいる。それは光の屈折とか幻覚だとかそんなまっとうな、科学的な理由による物ではなく、単に俺のおかしな頭の所為でそう見えてしまったに違いない。
本来黒のあるべき所に、悲しくなるくらいの異端がギラギラと輝き滲んでいた。燃えている、と言ったって良い。(あれは血の色で、彼女の色で、弟の身体に染み付いた色であるはずの、)確かな赤だ。感傷的な色だと思った。
『……嫌な目』
同じように俺の目を眺めていたらしい女が吐き捨てる。
『嫌な目をしてる』
少しハスキー過ぎるくらいの、なじり。小さな体躯に似合わず低い声だ。
幼い時分、こいつの方がお前よりずっと男らしいな、とからかわれたのを思い出す。この女は昔から凶暴で粗暴で喧嘩好きで、何をやらせても涼しげな顔でこなす奴で、(だから俺は何度も他のなにかと見間違えそうになった。)
華奢な全身が醸し出す冷酷と孤高も相まって、彼女の足下の影がだぶって見えるような感覚があったのだ。
俺の呆けた顔に気付いたのか、女が眉間を歪める。
『その、みじめったらしい目でさ。あいつ以外の物も見ればいいじゃない』
(…そんなの無理だ)
だぶらせたのは一度や二度じゃなかった。いつも。いつもだ。
彼女は、誰よりそこに気付いているのだ。それも探り当ただけで無視して素通り、なんて生易しい事はしない。出来るだけ、深く深くへ穿ってやろうとしている。
『そんなに辛いなら、あいつなんかもう見なけりゃいいじゃない』
(無理なんだよ、)
穿つ方も穿たれる方も、どっちも等しく痛くて不幸なだけだ。俺は口角を曲げようとして、思いの外上手く行かない自分が悔しくなった。
疲弊しきった筋肉みたいに、表情が重たい。これでちゃんと笑いの形になっているだろうか。案じながら視線を上げると、怒りに大きく見開かれた女の目があった。
『…なにそれ。君、ひどいバカだね。治りようがないよ』
(そうかもしれない)
瞳が震えている。今度は赤には見えない。
俺は何の変哲もない黒と、多分笑顔のまま、対峙している。
『口答えは。言い訳はないの。どうして黙ってる』
『何か喋れって言ってるんだよ』
『これだけ言われて、どうして。なんで』
音が揺れて聞こえる。本当に動揺してるのは、どちらだろうか。
耳に入るのはどれも固い声だが、いつもよりやけに不安定な気がする。ただの思い込みかもしれない。定かじゃあない。
『……その顔、やめてよ。ねえ。本当に腹が立つよ』
わらっている。俺は。我ながら汚いと思う。
彼女は、それが気に食わないと言う。不愉快だと、殺したくてたまらないとも。ごめんと、胸中だけで謝罪を口にして、俺は目を閉じた。何が一番残酷で、何が一番お互いを穿つ存在なのか、分かっているくせに。
分かっているくせに。
(死ねば良いんだよ)
瞼の裏で、女が眩い西日色の眼を輝かせている。
その言葉の矛先が俺たち片割れのどちらへ向けられたのかを知る機会は、きっと、ずっと失くしたままだ。
06.09.23
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