正座を開始して、もう小一時間は経過している。
 この状況で足が痺れましたなんて言えば、まず間違いなく命の一個は落とすだろう。知っているからこそ耐えられる苦痛だ。
 いくらダメのなんて身も蓋もない通り名をつけられようとも、雲水という男の秘めた恐ろしさを忘れるほどの能無しには生まれついていない。窮境に残されたせめてもの幸運だった。
 「…あ、あ、あの、ですね、その」
 沈黙に支配された時間が、何より気まずい。寧ろ恐い。
 唇が中途半端に戦慄いた。激しい言吃りの後にあったのは遁辞だったのかもしれないし、謝罪だったのかもしれない。許しを乞う余地がないのは知っていた。懇願にはいはいと応じるほどの温情を残した人間が、今目の前で、こんな能面をしているはずがないからだ。
 「言い訳は、聞かない。聞きたくもない」
 雲水はそう言って、ゆっくり瞬いた。
 冷徹な双眸がの旋毛を見下ろしている。慈悲はないだろう。許容の道も断たれた。小心を自覚するにはまさに血も凍るようなシチュエーションだ。
 「これをやったのは、お前一人じゃないな?」部屋の壁紙を軽く叩いて、雲水。
 彼の指が押さえている部分には赤色とも紫色ともつかない曖昧な、しかし強烈な存在感を放つ汚れが染み込んでいた。
 元は、ただの白い壁紙だった部分だ。はしどろもどろに舌を動かして、拙い言い訳をひねり出した。
 「……せ、精一杯拭いたんですけど」
 「そんな事は聞いてない。俺の質問に答えろ、
 能面は詰問を止めない。取ってつけたような笑顔もこの人なら綺麗に見えるから不思議だ、とは場違いな感想を抱いた。
 そこには当然恐怖も並行していた。雲水の反抗を許さない命令口調の内側には、彼と姿形を共にする悪魔の面影が見え隠れする。どんなに相反する人格であっても、彼等はやはり双子だった。
 「共犯者がいるんだろう」
 整った微笑みのまま、雲水がまさに話の核心である所をブスリと突いた。
 無遠慮な単刀直入ぶりに、思わずも顔を引き攣らせた。いつもの彼ならこうではない。もっと回りくどくて気遣いがある。今日は相当、頭に来ているようだ。
 否定してみようかという考えも頭を過ったが、こればかりは隠蔽の不可能が明白で仕方なかった。殺されてしまうよりはと、大人しく首を縦に振る。
 「阿含だな?」
 「…はい」
 そう、何もかもお見通しだった。
 は両足の疼きを懸命に堪えつつ、淀んだ視線を床に落とした。
 今日ほど阿含の得手勝手さを憎いと感じた事はない。
 彼がほろ酔いの状態で朝帰りをしたのは、確か2時間前だったろうか。
 女に貰った、とか何とか言いながら阿含はの前でワインボトルを掲げてみせた。(彼は帰宅と同時にを引っ張って来て、その日の貢がせ物を見せるのが常だった。多分に意図的な嫌がらせだ。)中身は並々入っていて、というか、まだコルクすら抜かれていなかった。新品を貢がせたのだ、と知って呆れた。恐ろしく太っ腹な金づるがいるらしい。
 『あ、あんたって人は……酒なんか家に持ち込まないでくださいよ!』
 『ワインだっつーの』
 『同じじゃないですかッ。もー雲水さんに怒られるから飲酒ダメ、絶対!』
 『何の標語だバカ。貰いモンどうしようと俺の勝手だろ』
 そんなこんなで口論に発展した。
 正論を言い続けたのは最後までだったが、口先の天才に舌戦で勝る事など出来ない。結局は食卓の傍で揉み合いになった。
 これを引き金と言うなら、そうなのかもしれない。
 何の弾みか、はっと顔を上げた時には阿含の手からガラスのボトルがすっぽ抜けていたのだ。液体をたっぷり蓄えたその大瓶は、なだらかな流線型を描いて宙を舞い――――例の壁紙にぶち当たり、砕けた。ガシャンと音を立てて。割れ物には妥当な結末だった。
 そうして責任の所在がうやむやになったまま、現在に至る。
 隣で同じく正座をして叱られるべき阿含は、ここにいない。
 とうの昔に逃げたのだ。は内心彼の卑怯を呪ったが、証拠隠滅を図ろうと必死になっている所を雲水に見つかってしまっては、何もかもが後の祭りだった。
 自分も逃げておけば良かった、と声には出さず嘆く。壁際にはまだ使いかけの雑巾が落ちていた。曖昧な赤紫色の汁を吸った、無惨な姿で二人分。涙が出そうだ。
 「見つけ出して一緒に正座させてやらないと駄目だな。自分だけ逃げ出すなんて根性がまず腐ってる。、奴は何処に行った?」
 「……、し…りません」
 真っ赤な嘘だ。本当は全部知っている。
 彼は途中までと肩を並べて壁拭きを行っていたから、家の外には出ていない。出る暇があれば出ていたのだろうけれども、雲水の帰宅が予想外に早まった事もある。
 二階を隈無く捜せば、いとも簡単に見つかってしまうのだろう。棚の中か、さもなければベッドの下か。きっとそんな工夫のない所だ。古屋敷でもないこの家の中には、都合の良い身の隠し場所など、そう数もないのだ。
 「知らないわけがないな。彼奴の靴はまだ玄関に残ってる」
 そこまで見通されていた。
 (あああっ…分かってたけど、どうしようこれ……阿含さぁん!)
 袋小路に追い詰められた溝鼠の気分だった。は涙目になって雲水を見た。能面の笑みは崩れない。一度こうだと決めたら、それを貫く人なのだ。
 「口止めされてるのか」
 「………う」
 短い逡巡の後、こくっと頷く。今の彼にこの程度の理由で糾問をやめてくれる優しさがないだろう事は、承知している。
 しかし、にもどうしたって譲れない部分はあるのだ。
 膝の上で握った拳が酷く震えた。
 「い、言ったら犯してボコって野良犬に食い殺させるって、阿含さんが…」
 今は雲水よりも阿含への恐怖が勝っている。
 ごめんなさい雲水さん、と心中呟いては頭を垂れた。
 「そんな脅しをかけたのか、あの馬鹿は」
 案外普通の反応が返って来た。
 沸き上がって来た一筋の希望に、はハッと顔を上げた。もしかして、もしかするとこのまま許してくれたりするのだろうか。
 「仕方ないな」
 能面は消えていた。声は温かい。一見いつもの雲水だ。
 けれども、そこには何となく言葉にし難い圧迫感があった。
 ひたひたと床を踏む足音が近寄って来る。指先がフローリングを蹴る音。それはの膝の手前で収束するかのように、止まった。強張った肩を包み込んで、置かれる手。正面にある笑顔は、そこだけ見ればまるで慈母のようだが、裏にある物は違った。
 にこり、と雲水。端正な笑顔。
 「。どうしても吐かないなら、俺がお前を犯す」
 「――――ッッ!?」
 爽やかな微笑みと共に、壮絶な死刑宣告が放たれた。
 顔色を失くしたのはだった。彼は果たして、こんな手段に出る人間だったか。頭に、思考と疑念が入り乱れては渦巻き、流されて行く。だが大人しく固まっている余裕はない。従順に犯されるのを待つ気もなかった。
 「あ…あああの、その! 私これから急用がっ」
 言い逃げ。腰抜けの自分にはこれしかないんだと、は思った。
 床に腕を突いて、立ち上がると同時に逃げ出そうとする。
 無駄だった。満遍なく痺れて引き攣った脚では、膝から下に全く力が入らない。一時間超の正座がこんな所で仇になった。
 「そんなんで無理して歩くと筋が攣るぞ」
 気遣わし気な忠告が背後から追いかけて来るので、一層必死になった。
(本当に心配してくれてるんだろうけど、色々ズレてるんですよ雲水さん……!)
 歩けない、となるとここはもう四足歩行しかなかった。意地汚いと知りつつ、は一心にドアを目指した。人前で獣歩きなんて恥ずかしい真似は普段なら赤面して拒否する所だが、状況が状況だ。
 みっともないのも空しいのも、犯されるよりは確実にマシである。
 (どっちが恥ずかしいかって言われたら、そりゃあもう!)
 かといって、二足歩行と四つん這い。
 先手を打ったとしても速度の違いは明白だ。
 「…逃げられると思ったのか?」
 それは、の見当違いを心底哀れむような声だった。
 間髪を入れず雲水の手がの後ろ襟を捕まえ、軽く手前側に引っ張る。
 「う、ぐえっ」
 漏れる呻きすら情けない。
 手を振り回して抵抗するも、難無く回避されて押さえつけられた。こういう状況で一片の容赦もない所は、やはり阿含の兄らしい。
 「今吐いてくれれば何もしないが」
 「は、吐くのも嫌だしも捕まるのも嫌だー!」
 ごくごく自然に体を正面へ向けようとする雲水に対して、取っ掛かりのない床に手を貼付けて抗う。引っくり返されて向かい合ったら、それがのゲームオーバーだ。失敗したあ、と穏やかに笑って済む問題ではなかった。
 「仕方ないな…」
 また、この言葉。諦める気があって言っているのではないと、分かっている。
 けれども予想に反して、体を反転させようという動きはぱたりと途絶えた。疲れたのだろうか。呆れたのか。
 「……まあ…後ろ向きっていうのも、なくはないか」
 聞き捨てならない一言だった。
 「ギャアアアアアッ!!」
 部屋に響き渡る、渾身の絶叫。雲水は近所迷惑だといさめた。
 後ろから回された手がするするとシャツのボタンを外しにかかる。驚くほどに作業は迅速だった。このままでは冗談にならない、とは慌てて身を捩った。
 「まままま待ってください何のつもりですかこれっ」
 叫ぶ声は多分に裏返っていた。
 雲水は直接問いに答える事はせず、ただゆるゆると首を振った。
 「うちでは悪さをしたら相応のお仕置きと決まってるんだ、
 「ってことは……あ、あの阿含さんも!?」
 「あいつには毎回ケツパン百叩きの刑だ」
 「じゃ、じゃあ私もケツパンにしてくださいよ! その方がこんなのより百倍我慢出来ますって!」
 「……そこまで俺が嫌いかお前は」
 「そ、そんなつもりじゃ、全然ないんですけど!」
 雲水が悲しそうな顔をしたのと、が破綻した日本語で叫んだのと。轟音を立ててドアが開いたのとは、同時だった。壁が木製の板を弾く、バァンという音。
 顔を上げた先に立っていたのは、魔王。
 いや、阿含だった。
 「あっ……阿含さああぁん!! よかった、助かったあっ」
 ―――恐ろし気なドレッドヘアも、今は後光すら差して見える。
 の目が歓喜の涙に輝いた。
 「うっせえ騒ぐなカス。つーか俺差し置いてお楽しみってどういう了見?」
 阿含の声は地鳴りのように低い。丸めた拳を手の平に押し付け、ボキボキと派手な音を立てる。機嫌は低調、どころでないようだ。
 薄らと浮き上がった額の青筋に、は鍔を飲み込んだ。彼が極端に血の気の上りやすいタチだという事は知っているが、ここまで激昂した顔は普段なかなか拝めない。
 「お前こそ何様のつもりだ阿含。居場所を吐いたら犯してボコって犬に食わせる、だったか? に勝手な提案を押し付けるんじゃない」
 言い返す言葉には淀みがなく、別人かと思うほど饒舌だった。雲水は下敷きにしていたの体を抱え上げると、素早く背中に回した。
 「そっちも十分勝手じゃねえか、ああ? 強姦一歩手前がよく言うぜ」
 「正当な仕置きだ。お前が大人しく出てくれば問題なかった」
 「責任転嫁してんなよ生臭ボーズ。抜け駆けはどう考えても卑怯だろ」
 「敵前逃亡がえらそうな口をきくな腰抜け。抜け駆けはお前の方だ」
 犬猿。いぬとさる。月並みな二文字が脳内を巡った。同じ顔、同じ声。そのくせ両極端な主張を影から眺めつつ、は漠然とした疲弊感を感じた。彼等の言い合う内容がよく、分からない。
 「、てめえもボアッとしてんじゃねえ。そんなハゲごときにバックバージン奪られやがったら死ぬまで犯すぞ」
 怒りの矛先はいつの間にか側へ方向転換されていた。
 「バッ……!? ど、どういう脅しですかそれ、意味分かんないですよ!」
 「阿含。に俗な単語を覚えさせるな」
 ぎろり、と雲水が睨みを効かせた。
 説教の対応には慣れたもので、阿含は怯まず肩を竦めてみせる。
 「お前こそな、嘘教えてんじゃねえぞハゲ。ケツパンは大昔の話だろうが」
 「えっ、そうなんですか」
 脅えていたも、驚いて思わず口を挟んだ。
 「たりめーだ。今は一日閉め出し食らうとかそんなもんだっつーの」
 ふん、と面倒臭そうに鼻を鳴らす阿含。眉間には苛立の所為か、皺が寄っている。完全無欠を誇る彼にしてみれば、百叩きというのは酷く不名誉な過去のようだ。
 「まあ、それはどうでもいい」
 穏やかな声色で、会話を切ったのは雲水だった。
 その平静さが逆に恐ろしくて、はびくびくしながら彼の横顔を見つめた。阿含も同じように口を噤んで兄を見ているが、脅えた様子はない。ただ若干顔色は悪かった。
 「お前達にはそれなりの罰を受けてもらおうと思う」
 奇妙に緊迫した雰囲気の中で、雲水が柔らかく口角を曲げる。
 「……そうだな、こうするか。阿含は自費で壁と天井の張り替え、は夕飯まで雑巾で床磨きだ。張り替えは業者に頼んだりしないで自分でやること。完璧に元通りにだ。雑巾がけは、両面が真っ黒になったらすぐ洗いに行け。バケツを使ってもいいけど、水はこぼすなよ。水拭きの後は乾拭きをするのも忘れずにな」
 「……待てこらハゲ、天井は明らかに余分だろ」
 納得いかない、という口調ですぐさま阿含が抗議に出たが、「逃げた分のプラスアルファだ」と一瞬で棄却された。気の毒に。は沈黙して睫毛を伏せる。阿含は暫く家出でもするんじゃあないかと、少し心配になった。
 「は、異存ないか?」
 「…はい…」
 「夕飯を作り終えたら呼んでやるからな」
 彼が夕食を告げに来るまで、これからたっぷり六時間はあるだろう。
 泣きたくなるような条件だ。もう一度四つん這いで逃げるのとこれと、どちらがマシだか分からなくなって来る。足に僅かばかり残る痺れがじんと痛む。
 (明日、ぜったい腰ヤバイよなぁ…)
 頷き返したの目に、薄い涙の膜が光った。















06.08.19