父母は仕事、兄は部活。
 家で目を覚まして朝食が用意されていないなんて状況は以前の彼にしてみれば当たり前の物で、格別何かを思わせるわけでもなかった。
 どうやら俺は変わったらしい、と阿含は思った。
 それが良い変化なのかそうでないのかは判別出来なかった。出来た所でどうなる話でもないと考えていたのかもしれないし、何しろ目先の事以外にはあまり興味を持てない性質なのだ。
 程よく焦げ目のついた目玉焼き。
 朝食と呼ぶには多分に遅過ぎるそれを、たっぷり時間をかけて咀嚼する。初めの頃より料理の腕は上がったようだ。微妙な塩胡椒の加減に進歩が見られる。
 最後の一切れが口中で消えると同時に、顔を上げた。テーブルの対角線上、肩肘をついて座ると目が合う。随分と分かりやすい顰め面だ。
 「なに睨んでんだよ」
 「……別に、そういうわけじゃないです」
 尻窄みの煮え切らない返事と一緒に、視線が逸らされる。
 溢れるほど不満は持っていて、そのくせ正々堂々喧嘩を売る気にはなれないらしい。賢明というか、何処までも男らしくない奴だ。携帯で呼びつけた事をまだ根に持っているのだろうか。
 「食い終わった」短く告げて、皿と箸をまとめて押しやる。は仏頂面でそれを受け取って、流しへ消えて行った。
 暫くの間、水音と陶器の立てる耳障りな音とが交雑する。一人分の食器だ。洗うのにそう手間はかからないだろう。思っている間に書生のひょろっとした体が阿含の眼前を横切り、ドアの向こうへ消えた。
 廊下を踏む微かな足音がする。途中で曲がり、立ち止まった。ややあって、ガラガラ、ピシャンと引き戸の開閉音。
 (ハ。風呂かよ)
 書生の分際で、昼間から風呂。家主を忘れて出かけたくせに。皮肉とも八つ当たりともつかない文句が頭を過ったが、舌を滑る事はなかった。どうせまた可愛げのない反発が返って来るのだろうと朧に考えて、口を噤む。
 朝は不快だ。何もかもが面倒で、昨日女と交わした約束を遂行しようと考えるのさえ億劫に感じる。あまり、外に出たい気分ではなかった。阿含は一つ大きな欠伸を落とすと、徐に席を立ち上がった。





 (なんでこう、朝から散々かな…)
 シャワーが痛い。久方ぶりの感覚だ。
 降り掛かる湯は、真新しい傷口の上にじわりと染みる。
 は息を吐いた。真夏の炎天下をはるばる神龍寺まで歩き訪ねて、やっと一息つけたと思いきや今度は携帯から阿含の怒声に呼び出される。汗だくで帰宅すれば、書き置きも残さず外出した事を酷く咎められて。それこそ、口答えでもしようものなら瞬殺されかねない勢いだった。彼の横暴に限度という物はないのだろうか。
 (天才……なら、朝飯くらい自分で作れると思うんだけど)
 単なる我侭にしたってタチが悪い。影武者修行で養われた忍耐力もそろそろ限界だ。試されているのか、とふと思ったがその疑念はすぐに流されて行った。あの我慢ならない傍若無人さも、彼の素の一部に違いない。リボーン然り、阿含然り。凡人と一線を画す人間は、往々にして一般市民には理解出来ない思考回路を持っている物なのだ。
 (これも修行かな)
 顔を拭って、シャワーを止める。ボディーシャンプーの容器に手を伸ばしかけて、脱衣所の扉を引く音に気付いた。は、と目を上げる。曇りガラスの向こう側に人影が一つ。
 「…阿含さん?」
 返事はない。ただシルエットでその人と分かる。
 また何か文句を言いに来たのだろうか。見えない事を承知で眉を寄せた。
 「なにか、用ですか」
 やや長い沈黙。何か、ぼそぼそと歯切れ悪く喋っているのが耳に入る。もっとよく聞き取ろうと、ガラスに近づいた。
 「……シャンプー、切れてんだろうが」
 「は?」
 「ボディーシャンプー!」
 聞き返した声を遮るように、焦れた怒声が浴室一杯に響き渡る。
 鼓膜をやられた。よろめきに引きずられるように、は二三歩後退した。
 「あ。わ…わざわざ持って来てくれたんですか?」
 きいんとする耳を押さえつつ、何とか返した。ガラス一枚隔てた先ではっきりとした嘆息があって、は首を傾げる。足下の800ml容器を持ち上げてみると、確かに普段の重さがない。そういえば昨晩、買い置きを出しておいてくれと雲水が言っていたような気もする。買い置き。ボディーシャンプー。これの事だったらしい。
 扉の向こうの阿含に、もう一度視線を戻した。でこぼこと歪にもやがかって不明瞭だが、何となく面倒臭そうな顔をしているだろう事は、想像に難くない。これは書生に対する彼なりの親切、と取って良いのだろうか。単なる気まぐれじゃあないんだろうか。正直そんな事をするタイプだとは思っていなかったので、感謝よりも驚嘆の方が大きい。
 「あの、阿含さん……」
 「なに」
 礼を言うつもりで口を開きかけて、は言い淀んだ。
 (……入って来るつも…り?)
 見間違いでなければ、阿含の手は引き戸の取っ手にかけられている。続く声が固くなったのも、仕方ないと言えば仕方なかった。
 「…シャンプー、そこに置いといてもらえませんか。後で取りますから」
 「はあ?」
 棘を含んだ声色で、今度は阿含から聞き返す。
 どうやら不躾が気に障ったらしい。慌てて取り繕う言葉を探すも、その全てが阿含を止められそうになかった。一度決めた事は、滅多と取り下げない。彼は負けず嫌いの見本のような人なのだ。
 「なにお前、男同士で見られちゃマズイもんでもあるわけ?」
 まったくその通りだ、とは言えない。ほとんど泣きそうになりながら、は力無く左右へ首を振った。
 「そ、そうじゃなくて……」
 「あー分ァかった。よっぽどショボいの付いてんだ」
 小馬鹿にしたような笑い声。
 そのからかいの意味する所を知って、蒼顔が真っ赤に染まった。
 「違いますっ! アンタはなんですぐそう言う方向に持ってこうと……」
 「違ぇなら良いじゃん。オラ、開けるぞ」
 明らかに楽しんでいる阿含の声。
 「!? だっ、だ、だめだめだめだめ絶対だめ―――!!」
 必死の制止は、意味を成さなかった。
 ガラリ。濁った音を立てて、無情なほどあっさりと。躊躇いもなく、引き戸が開け放たれた。湿り気を帯びた熱風が、冷気を求めるように浴室の外へ流れ出す。悪寒がじわじわと背中を浸食して行く。鳥肌。鳥肌が立つ。




 (―――おわった)




 ぜんぶ、終わった。
 点になった阿含の目を見て、確かにそんな絶望を感じた。









 06.08.22