そうか、転ぶと血が出るのだ。
 真っ赤に染まった自分の膝を、他人事のように眺めている。天辺に溜まった血液は今滲み出て来たばかりの物だ。は意識の外に鈍い痛みを噛み締めたのち、水面に浮かんでいる砂利を指先で払った。皮膚についてきた液状の赤はシャツの裾で拭う。暑さの所為もあって何となく全てがやけっぱちだ。
 (こんな事してる場合じゃない)
 瞼の上の汗を気にしながら、ふらふらと立ち上がる。
 転倒と出血がほぼ法則的な堅さでセットになっている事すら忘れていたなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。リボーンが聞けば、さぞかし蔑んだ目をして笑うだろう。お前ファミリー抜けていいぞ、なんて冗談のような最後通告をくれるかもしれない。そうなったら、あの気の優しい若頭領はどんな顔をするだろうか。考え直してあげてよリボーン、なんていつものように懇願してくれるか、それとも――――
 いや、考えるだけ空しい話だ。もう長い事、彼等の顔も見ていない。騒々しくて命がけの愛おしい日々も、今は何処か遠くにある。
 取り残されたに与えられたのは、擦り傷一つにつけても女々しく過去を懐かしむような、穏やかな毎日だけだ。危険は絶えたが、苦痛ばかりは無視してなくなる物でもない。
 「…あ。荷物」
 道の脇に転がったベージュの包みを拾い上げて覗く。
 どうにか中身が無事だったのを確かめると、は再び元の急ぎ足で歩き始めた。食った遅れは清算しなければならない。滲んだ血が臑や靴を汚すのはこの際、目を瞑った。



 そうして正午近く、神龍寺学院に辿り着いた頃には、悲しくなるほど全身汗に濡れていた。薄地のシャツを着て来なかったのは今思えば正解だったかもしれない。でなければ、全身シースルー状態で碌な目を見なかった。
 広いグラウンドの中、良く通る声を張り上げながら活動に打ち込む学生達を見渡しながら、は自分自身もずっと以前からその環の中に加わっているような、曖昧な錯覚を覚える。
 頭も体も、死ぬ気で走った後のように疲労していた。
 眼の奥がきんと痛むし頭痛もする。
 道中酷い渇きにも関わらず、自販機のボタンを押す事すら叶わなかった。黒いズボンのポケットには缶一本買える小銭すらないのだ。
 手持ちの荷物と言えば、ただくすんだ色をした包みだけである。
 緑色のフェンスに手をかけ、深く息を吐く。
 然程厳しい運動でなかったにも関わらず、精魂尽き果てた。猛暑の所為だ、と思う。こんな時に限って吐き気まで催して来る。
 「おーい、そこ危ないっすよ!」
 聞き慣れない声がかかって、振り向くと黒いユニフォーム姿の少年がに向かって手を振りながら駆けて来る。
 どうやら練習の邪魔になっていたようだ。
 「す、すいません」
 謝罪と同時に慌ててフェンスから遠ざかる。
 少年は、会話の出来る所まで近寄って漸く止まった。遠目には分からなかったが、その出で立ちは随分と重々しい。肩や膝の装備、手に持ったヘルメットの形状からして、雲水と同じアメフト部所属のようだとは憶測する。
 「見学っすか?」
 少年がくりくりと目を輝かせて、張りのある声で喋った。
 額の胡麻のような黒子も相まって、何となく人好きのするタイプだろうと思われた。仕草のそこかしこに愛嬌が溢れている。
 「あ、その、見学じゃなくて。アメフト部に会いたい人がいるんですけど」
 「会いたい人? ……あっ、もしかして阿含さんすか」
 何故そこで阿含の名前が持ち上がるのだろうか。
 あの人部活の中でもよっぽど目立ってるんだなあ、と思いながらは首を軽く横に振った。用があるのは、彼ではないのだ。
 「雲水さんって人なんですけど。今会えますか?」
 「雲水さんに!?」
 あ、驚かれた。
 黒子の少年を襲った衝撃の原因がいまいち理解出来ず、は何か一人取り残されたような気分を味わった。反応からして雲水とも知り合いのようだが。
 「あ、あの人とはどういうご関係なんですか?」
 また珍妙な事を聞いて来る。
 部外者は通さない規則でもあるのだろうか。
 けれども仮に金剛家の書生だと説明して、今時の高校生にああと頷いてもらえる確信はない。は暫く思案に暮れた後、答えた。
 「この夏から、一緒に住まわせてもらってる者です」
 「…!?」
 少年はまたには分からない理由で余程驚いたらしかった。
 唇を戦慄かせ、目を剥いて、他人には聞き取れない声で一言二言何か口走ったと思うとその場に背を向けて駆け出してしまった。
 何やら尋常ではない様子だ。
 (…ちゃんと伝えてくれるのかな?)
 あまりの慌てぶりに、不安が過る。背中を追った方が良いのではないだろうか。遠ざかるユニフォームの後ろ姿は、これでもかと思うほど速かった。へなちょこのでは、包みを捨てて走ったとして追いつけはしないだろうが、どうにかすれば行き先くらいは分かるかもしれない。





***




 「雲水さん、カノジョいたなんて聞いてないっすよ!!」

 QB達の練習に割り込むなり一休は叫んだ。
 これ以上ない全速力で走って来た為にぜえぜえと恥ずかしいほど息を切らしながら、それでも渾身の力を込めてきつと雲水を睨みつける。
 本人はパス直前の姿勢を取ったまま石像の如く固まっている。動揺しているのか、シラを切る算段でも組み立てているのか。ヘルメットの内側で丸くなった目を射抜くように見つめながら、一休の胸中には羨望と恨めしさとが混在していた。
 付近にいた部員達は、硬直する雲水と対照的にわあわあと色めき立った。
 有り得ねえとか、ガセじゃねえだろうなとか、誰もが勝手な事を言っている。
 「……グラウンドの、入口のとこに、…本人が、来、てます……っ」
 息切れの鎮まらないまま喋るので、アクセントがおかしい。
 雲水は尚更困惑した様子で眉を歪めた。
 「悪いけど、一休…」
 「身に覚えがないなんて、言わせませんよ」
 彼女は一緒に住んでいると言った。つまり、同棲という事じゃないか。
 「女の子と一緒に住んでるんでしょう!」
 辺りは更に騒然とした。
 ―――この年で、しかもよりによって雲水が同棲だ。
 一休自身信じられないような話だが、あの女の子が自分からそう言ったのだから嘘なはずがない。彼女は阿含ではなく、はっきりとその兄の名前を口にしたのだ。
 「学生シャツ着た黒い髪の、ポニーテールしてる、めっちゃくちゃ可愛い子ですよ。純そうな。雲水さんに会いたいって言ってました」
 好奇の目の大半がそこでじとりとした種類の物に変わる。
 だが当の雲水は困ったふうでもない。
 寧ろ納得の言ったという顔で、爽やかに笑いながら手を打った。
 「いや、一休違うんだ。そいつはきっと、うちの……」
 しかし、彼の言葉が最後まで紡がれる事はなかった。


 「雲水さん!」

 細い、子供のような声が響いた。
 言う間でもなく、この神龍寺ナーガに変声期前のか弱い少年などいない。
 部員達の視線が一斉に同じ対象――一休が言う所の、雲水の恋人なる女――を捕らえた。
 雲水もすぐに彼女を見つけた。やっぱりな、という顔をして。
 「あ、あの、机にお弁当忘れてたから、持って来たんです…けど」
 その場の注意を一身に引き受け、僅かにたじろいだ様相で少女が呟く。
 顔を薄ら緊張させて脅える動作すら小動物のようで、男臭い神龍寺の中にあっては新鮮だ。
 「遠いとこまで悪いな。言ってくれればコンビニ弁当にしたのに」
 「雲水さんまで阿含さんみたいな食生活になったら嫌ですよ」
 「そんな事で、お前……。それよりその血みどろの足どうしたんだ」
 「途中で転んじゃって、ちょっと。あ、でもお弁当は大丈夫ですから」
 「弁当は良いから、きちんと消毒しなきゃ駄目だろう」
 会話の内容、和んだ空気、加えて二十センチはある身長差。
 見てくれは丸きり付き合い始めのカップルに相違ない。その上、絵面は南くんの恋人ばりの純愛。同棲なんかしているくせにだ。
 甘い、と部員の一人が小声で零した。
 誰もが心の中でそれに同意しつつ、声には出せない。
 「ほら一休、こいつがうちの書生だよ」
 振り返りながらながら、友人でも紹介するような軽い口調で雲水が言った。
 「阿含の奴が部活来ると、たまに話してるだろ」
 「……しょ、せい…?」
 しょせい。
 女じゃなくて、しょせい。書生。
 一休は必死で記憶をたぐる。そう、雲水が言う通り阿含はしばしば『書生』の話をしていた。他人の家で飯を食わせてもらう代わりに家事をする学生、とかそんな物だった気がする。彼が面倒臭そうに、そのくせ詳細に語った情報によると確か、「男のくせになよっちくてとろくて冴えない、髪なんか結んでるモヤシのチビ」であったはずだ。
 (……モヤシでチビで…、男?)
 頭にのぼった血がさあっと冷えて行く。
 きっと今、顔は青い。
 「じゃ…じゃ、その人……! オ、オトコ、なんすかっ!?」
 「ああ、間違っても彼女じゃない。なあ
 まさか、そんな。
 愕然として一休はと呼ばれた少女の顔を凝視した。
 が、少女は振られた話を否定する事もなく、口元に苦笑を浮かべる。
 「ま、紛らわしくて、なんかすいません…ホント」
 間違えられるとは思わなかったんですけど。と、仄赤い頬を掻きながら気後れしたように『彼』は言った。
 表情筋の固く強張った友人を、雲水が傍から不思議そうに眺めている。彼は何も分かっていないようだった。それがまだ救いになっているのだけれども。
 (……男に可愛いとか言って……俺、俺…!)
 これが質の悪い冗談でなければ、何だと言うのだ。凍えた血液が体を下ると同時に、一休は目の前が真っ白になった。





***





 前置きがなければ、は女に見えるらしい。
 なるほどそうか、と雲水は思った。確かにごつい男の代名詞達がごった返す神龍寺においては、そう捕らえられても仕方がない見てくれかもしれない。背丈は高校生男子の平均と比較すれば明らかに低いし、手足はひ弱な先細りで、顔もなよやかな影がある。
 しかし、いくら何でも「可愛い子」呼ばわりはないだろう。
 雲水は苦笑して、未だ固まったままの一休の肩に手を置いた。フォローの一つも言ってやりたいが、如何せん笑いが込み上げて来てどうにもならない。彼の勘違いは、今後数日ほど部活内のネタになるだろう。気の毒な話だ。
 とんだ誤解を受けたはと言うと、スキャンダル好きの西遊記一行に囲まれて何やら忙しそうにしている。
 「すっげ、まだ声変わり来てねえのかよ! 高校生だろ、なあ。今時天然記念物じゃねえのか」
 一際通るゴクウの声が響いた。そう言う彼も、変声期後にしては声質の高い方なのだが。
 「すごいヤセてるけど適正体重なの? 肉まん食べる?」 
 「おいハッカイ、食いかけの方渡すな」
 「雲水くん達と一緒に暮らしてるなんて羨ましいわーァ。ずいぶんお肌が綺麗だけど、美白には気を遣ってるのかしら」
 まさに質問の暴風雨だ。ハッカイには肉まんを勧められるし、サンゾーには半ばお仲間扱いされている。答える間もなく次々詰め寄られて、当のは少々困り顔だ。あれでは尋問だと雲水は思ったが、上級生の手前口出ししてやる事も出来ない。
 「あ、あの、オレはそろそろ…」
 気圧されて吃りがちになりながらも何とか引き際を見出そうとしているのか、が一歩退く。彼の顔が青いのは、多分に日射病の所為だけではない。
 と、見計らったかのように甲高い電子音が鳴った。
 はその音源が自分の携帯であると知り、何故だか酷く狼狽した様子だった。ズボンから黒のボディを引っ張り出し、耳に当てるまで彼の手は小刻みに震えていた。それは誰か余程恐ろしい人間からの着信ようだった。
 「も、しもし……」
 恐る恐るが電話口に出る。
 電話の主を確信に近い形で雲水は予想出来た。
 金剛家に越して来て一月もない、近所付き合いもさほど濃くはないに電話をかけて寄越す人間など、ここ神奈川には一人しかいない。
 「……! ごっ、ごめんなさ…あ、すぐ帰りますハイ、すぐに!」
 ああ、やはり。雲水は目を瞑った。
 「今からダッシュでそっち行きますからッ、ごめんなさい!」
 奇妙に上擦った声で、が携帯に向かって謝り倒す姿が雲水からも見えた。宙に向かってお辞儀でもしそうな勢いだ。彼を囲む者達も彼を襲った不幸を―――その元凶が何かを、それとなく察したらしい。小さな背中には憐れみの視線が向けられている。
 やはり、阿含だ。分かりきっていた事でも、溜め息が出た。
 「また脅されたのか、
 通話が終わると同時に、声をかけた。
 可哀想な書生は血の気のない顔を僅かに頷かせ、すいませんと呟いた。何に対しての謝罪かは知れなかった。
 「オ…、オレがのろいから阿含さん、キレてるみたいで」
 いや、違う。どうせ朝の不機嫌の鬱散とかそんな下らない理由だ。
 「あの阿呆の我侭なんか一々聞いてやらなくていい」
 「でもきっと無視したら家がひどい事になりますから……、オレ、も、もう御暇しますッ! すいませんでした!!」
 言うなりは携帯を尻ポケットにねじ込んで、グラウンドの出口目がけて走り出した。途中、石になっている一休に気付いて一つぺこりと礼をしたが、それっきり振り向きもしなかった。
 (…阿含の奴、書生いびりにでも目覚めたか)
 置いて行かれた弁当の包みを拾い上げると、雲水は静かに息をついた。
 残った沈黙は、呆気にも似ていた。















06.08.14
改め06.0815