布団を床に広げると、真夜中にも関わらず日中の外気の匂いがした。一昨日か昨日ベランダに干したばかりだ。上に重ねた掛け布団の方は元々弟の私物だが、これを買い与えられた頃から放浪癖に似た困り癖を発揮し、稀にしか帰宅しなくなった。その上、暫くして兄弟と部屋が分たれると、今度はベッドを使うようになった。お陰で数年前に購入されたこの寝具も、言われなければそうとは気付かないほど白く滑らかなままだ。
 一度とは言え兄弟の使った物に客人を寝かせるのは抵抗があったが、まあ気にするような奴じゃないだろう。何にしても納戸のベッドは使えない。シーツも枕も干し出し中なんだから、と内心言い訳して、雲水はリビングに戻った。
 机の傍に、猫のように背を丸めて横たわる人影があった。
 思った通り、床に突っ伏して寝こけたままだ。
 「おい、。布団むこうに敷いたから」
 答えはなかった。ただ規則正しい寝息が返って来る。
 普段整然としている硝子の円卓は、今はつまみや菓子の食いかすやビールの空き缶やらで荒れ果てて彼の脇にあった。散乱したゴミの数々は後で片付けるとして、一先ずこの小さな厄介者を運んでしまわなければならない事には風呂も入れない。
 「起きろ。飲酒は見過ごしてやる」
 声をかけても肩を揺すっても起きる気配はない。寧ろ寝苦しそうに唸って、尚更意地汚く惰眠に縋り付こうとするばかりだ。
 嘘のように子供じみている。雲水は苦笑した。
 昼間の彼に、こんな奔放な仕草は期待出来ない。今も意識さえ戻ればこんな迷惑は絶対にかけまいとするだろう。真っ赤になって謝り倒すかもしれない。普段は見ている側がむず痒くなるほど気後れした平身低頭ぶりなのだ。卑屈、とも言える。確かには何をやらせても駄目駄目だが―――。
 (阿含も苛々するわけだ)
 あの弟は、どっちつかずで自信も度胸もない木偶人間が大嫌いだ。雲水は、しかし今の彼が存外を気にかけている事も知っている。机に残ったアルコール類もあれが無理矢理飲ませたのだろう。どんな嫌がらせか、もしかすると慣れない好意表示のつもりだったかは知らないが、それはまあ良い。どちらにしろ悪い徴候じゃない。

 書生の安眠を妨げないよう静かに腕に手をかけて、よっこらしょ、と上半身を持ち上げる。肩だけ貸して歩くつもりだったのだが、如何せん眠っている少年が相手だ。進もうとするとどうしても指先を酷く引きずる事になる。
 死人のようだと思いながら、雲水はその思い通りに行かない体を背負った。驚くほど軽かった。本当に、屍そのものだ。そのくせ感触は柔らかいから嫌になる。同年の男子がこんなにも軟弱な発育ぶりで良いのだろうか。明日からもっと肉を食わせなきゃならない。
 布団の上にを転がした際、何やらむにゃむにゃ寝言を言われた。耳を澄ますと、「食べられないよう」「そんなの入らないよう」だのふざけた事を呟いている。先程まで安穏としていた表情も心なしか苦悶に変わっているようだ。
 (寝てる間は気楽なもんだな、こいつも)
 目にかかる前髪を払ってやると、寝言が止まった。熟睡は相変わらずだ。書生を常に煩わせている気苦労も、今だけは遠くにあるに違いない。幸福そうな寝顔をしている。
 雲水はぼんやりとの頬を撫でた。微笑ましい気持ちだった。白いとか、孫がいるとこんな気分かとか、多分にそんな他愛もない感想があった。指の背を頬の上から下へ移動させる。一向に目覚める気配はない。穏やかに眠っている。だが、寝息は少し前から途切れていた。
 ぱちっとの目が開いた。
 何の前触れもなくだ。雲水は度肝を抜かれて手を止めた。起こした事を謝罪する言葉が幾つか頭に浮かんだが、それはついに書生の耳を通る事はなかった。

 は静かに腰から上を持ち上げて、雲水の首に手をかけた。
 空っぽの表情だ。寝ぼけているのかと思う間に、布団の上へ引き倒された。先程とは逆に、雲水が見下ろされる格好になっている。
 幼子のような指が、探るようにするすると首筋から頬へ移った。顔が近い。
 状況を考える暇もなく距離が詰まった。が普段着にしている学生シャツと、雲水のシャツとが触れ合って微かに音を立てた。遠くで水の跳ねる音がする。阿含がシャワーを浴びているから、その所為だ。関係のない事にばかり意識が行く。故意にそうしようとしているのかもしれなかった。
 静かに続いていた呼吸が止まった。
 目が合った瞬間、唇に食らいつかれたのが分かった。
 いや、歯は立てられていないからその言い方も語弊がある。食らわれるという錯覚があったのかもしれない。
 (なに、考えて―――)
 行為自体は拙い物で、艶っぽさの欠片もないのだ。しかし気圧されるくらい貪欲で、獣じみた激しさがある。目眩がして、雲水は全身を強張らせた。ややもすれば、理性から逸れた何処かを強く突かれる気がした。
 ゼロ距離から見下ろす少年は、やはり無表情のままだった。
 唇が離れた。雲水は感覚のない手で、ほとんど反射的にの肩を掴んだ。押し返すにも力が入らないのは分かっていたから、行動の根底にあるのは言い訳だ。
 けれど、思いの外効果はあったようだった。
 起きているのか眠っているのか曖昧な目が、数度ゆっくりと瞬いた。その内に光が戻って来た。眠たそうに、だがはっきりと意思を持って瞳が揺れる。
 やっと目覚めた。
 ほんの何秒かは、お互いに言葉がなかった。


 「………」
 「……、そ……あ、あの」
 の顔色はまず赤を通り白を経て、見る見る内に青ざめて行く。自分の手の在処と、体勢を認識すると、途端に目を見開いて後方へ飛び退った。
 「オっ、オレ、うんすいさんに、なななにを、っ」
 半ば自分の起こした行動を理解しているのだろう。喋りながら、歯の根が噛み合っていない。雲水は安堵が起こるのを感じた。これはあの、卑屈で弱々しい、ちっぽけな書生のだ。
 「寝ぼけてたが、何もなかった。気にしなくて良い」
 落ち着かせる為の嘘を言って、雲水はまだ呼吸の震えている書生の肩を叩いた。完全に信用する事はないだろうが、何もしないよりはまだ気休めになる。蒼顔のは困った表情で長らく沈黙した後、すいませんと蚊の鳴くような声で呟いた。
 それから、脅えた目を上げて雲水を窺う。
 「あ、阿含さんは……」
 「風呂だ」
 「……そう、ですか」
 会話が続かない。部屋を閉め切る戸の向こうから聞こえて来るシャワーの音ですら沈黙を誤摩化してくれない。弟の風呂はそう長い方ではないから、そろそろこの場を動かなくてはならない。出て来たときの事を考えなくては。
 「あっ、じ、実はオレ、寝ぼける癖あるみたいで! ここにお邪魔になる時に言えなくて、わ、忘れてたって言うか! …ほ、ほんとう、ごめんなさい」
 努めて何て事のない調子を作ったつもりなのだろう。は例の気後れした苦しそうな笑顔で、また申し訳なさそうに謝った。奇行の自覚はあるらしい。となると、教えたのは彼の友人だろうか。例えば黒い中折れ帽子を冠った、あの異人の少年などが、今の自分と同じような場に当たって、目覚めた彼にそれを諭したのだろうか。
 そこで、雲水は目の前の書生が男であった事を今更のように思い出した。おずおずと敷き布団の端を握りしめる仕草は、まるきり生娘だけれども、確かに同性の物なのだ。せめてこの家で、自分以外に彼の異常な習癖を知る者は作らない方が良い、と雲水は思った。
 「……忘れてたなら仕方ない。ただ、寝てる時に他人を部屋へ入れるなよ」
 ―――うちには碌な奴がいないから。と、心の中で補足する。
 目を合わせるには何となく気が引けたので、欺瞞と知りつつ向かい合う少年の額を見つめるようにして言った。は不思議そうな目をしたが、やがて家主の命令を聞くいつも通りの書生の顔で、はいと応じた。
 「もう二度と失礼のないように、頑張ります」
 (いや。失礼というか)
 の言葉に一瞬考えかけて、やめた。相互の名誉の為に。こんな馬鹿げた事は今後一切考えるべきじゃあないのだ。雲水は頷いて立ち上がると、ふらつく足取りで散らかったリビングに向かった。
 倒された時に頭でも打ったかと思い、坊主頭を押さえてみる。いつもより少し触感が鈍いだけで、瘤など出来てやしない。
 (あのリボーンとかいう子供はどう対処したんだ)
 数分後、何も知らない阿含が風呂の戸をけたたましく開けて出て来た時には、心底ほっとした。飲み散らかした酒についても、今日ばかりは許してやらなければならない。












06.08.10