梢の切れ間に、夏の夕空が見える。数億キロ先の空で起こっている光の氾濫が、紫と桃のえも言われぬ交雑と化して網膜に映る。
 皮膚に触れる空気は普段より少し冷たいくらいだ。昼間の内は過ごしやすいが、日暮れ近くなると上着なしで外出するには肌寒い。連日嫌気がさすほどの猛暑だったのに、ある日突然がくりと温度が急降下するのだから、日本の気候は余程難しい。
 (…イタリアは、どうなんだろ。地中海気候ってやつかな。そういえば、よく知らないや)
 今は眩しくもない太陽に向かって、は目を細めた。
 そうする事で幾つにも分割された浅い輝きが、縦横に好き勝手に伸びて、クリスマスのイルミネーションのように見えた。しかしそれはあくまでだけの光景、捩じ曲げられた風景であって、本当の所、今は間違いなく夏だった。日差しは乾いている。
 (だって、そういう話、全然してくれなかった)
 胸の内に、ぽっかりと白い空洞が出来ていた。その内側は濁ってもいない、病んでもいない、膿んでもいない、けれどいつからか凍りついてそのままになっていた。今後やって来るかもしれない、それが融ける日については考えられない。熟考するには色々と切な過ぎる問題だった。まだ、まだ着手するには早いのだ。
 (お前から聞いたのって、仕事と教育のことばっかりだったよ、リボーン)
 代わりに過去の事を、そう、今度は遠い友人たちの事を思い出してみた。暗色の睫毛の下に、記憶を伝って浮かんで来るのは、やさしい青年の顔であったり、美しい女性の後ろ姿であったり、小生意気な少年の酷薄な面影であったり、爆発音、罵声、陽気な笑い声であったりした。
 そうして鮮明なイメージが一通り流れ終わると同時に、溜め息が出た。気付けばその場にいない人々の事を考えてばかりいる自分が、情けないと同時に腹立たしく感ぜられた。
 私はもしかして日本を愛していないのだろうか、とは思った。だが即座に思い直し、否定した―――そんなはずはない。
 神奈川は美しかった。空気は澄んで、周辺は閑静、何処までも安堵に満ちている。昨日よりも幾分覇気に欠ける蝉たちの合唱、橙色の中空を飛ぶカラスの声、毎日続く夏休み、皆等しく愛しい。金剛家の住人もまた愛しい。彼らはがかけさせる苦労も手間も、穏やかに流してくれる。
 そこは、やさしい世界だった。
 愛すべき人とものとが存在する、絶対にを裏切らない世界だった。
 ただ少年が一人いないだけ。ただそれだけ。
 それだけの余白が、には悲しかった。心臓の上にぽつねんと空いた穴が塞がらないのはその所為だ。彼に置いて行かれてしまった所為なのだ。
 そして、金剛家には彼によく似た人間がいる。
 は持ち上げた視線をゆっくりと前に戻し、阿含の背中を見据えた。
 彼は何をするでもなく道の真ん中に棒立ちでいた。だからもずっと動かしていた足を止めた。微妙な距離が二人の間に出来たまま、膠着した。あまり近くはない。かといって遠くでもない。

 そこは車の往来も少ない、住宅街の中の所謂裏道だった。この途中を桜並木の屋根に覆われた、舗装の整わないでこぼこのアスファルトが続く長い坂道を真っ直ぐ上りきると、スーパーや郵便局の立ち並ぶ大通りに出るのだ。
 (なんか、似てる。体格とかは全然違うんだけど……この人見てると、なんていうか)
 温い、どっちつかずの思考を消化しつつ、は頗る高校生らしくないそのごてごてした後頭部を眺めた。ほとんど睨みつけるように注視した。財布を握りしめる右手の力が強くなった。

 突然、阿含が振り返った。
 数歩先で、口角ををぎりりと引き攣らせて怒っている。見るからに機嫌が悪い。口を開いた。何か叫ぶ気だ。
 「なに止まってんだバカ!」
 「へ…あっ」
 大声で怒鳴られて、はやっと本来の目的を思い出した。なぜ財布を持っているのかも、なぜ阿含と歩いているのかも。二人して雲水に買い物を頼まれていたのだ。
 「お前、遅ぇ」
 「す、すいません…」
 「悪いと思ってんならさっさとしろ。お前なんかのチンタラした買い物に付き合ってやんの、時間の無駄」
 乱暴に吐き捨てて、阿含が身を翻す。も急いで後を追おうとするが、慌てた為に財布を取り落とした。
 チャリン、と固い金属音。
 「……お前さあ」
 「すっ、すいませんすいませんホントっ!」
 弾みで運悪く散らばった数枚の小銭たちを掻き集めつつ必死に謝罪していると、頭上から溜め息が降って来た。
 馬鹿にされているのだろうかとは内心顔を顰めたが、そうされても文句の言えない現状にある自分に気付いて、軽く落ち込んだ。
 ここ最近、何だか申し訳ない事続きだ。





 店内はがやがやと込み合っていた。この時間帯は子連れで来店する主婦が多いのだ。店の南端の自動ドアがひっきりなしに開閉しては、生温い空気を取り込んでいる。
 トマトの水煮缶を手に取りながら、はその日の食卓を彩る雲水のハヤシライスを思い描いて、密かに微笑んだ。彼の手料理はそこらの女が作る一品、例えばが作る物などよりは遥かに美味かった。
 一緒に来ていた阿含はと言うと、早く済ませろ、と言ったまま何処かへ消えてしまった。入り口で別れたからまだ店内をぶらついているのか、もしかしてあまりに同行者が遅いから、一人帰宅してしまったのだろうか。
 (ありえるなぁ)は静かに苦笑した。天才、と呼ばれる彼は凡人が嫌いだ。それ以上に鈍臭くて覚えの悪い人間が大嫌いだ。
 彼はよく厳しい眼差しでを睨みつける。殊に得意のヘマをやらかした時など、苦虫を噛み潰したような壮絶な顔をする。嫌われているという事を頭では認知していても、いざ本腰を入れて考えてみると気分は良くなかった。胃をじくじく侵攻されるかのような陰鬱な心持ちだ。
 辛いのかもしれない。あの阿含の皮肉な笑い方や超越した態度が、なまじ彼に似ているから。
 目を閉じて、は息を吐いた。
 近頃、何でもかんでも感情的に考え過ぎている。これではいけないのだ。だって、こんなのはまるで―――

 肩に軽い振動を受けて、はびくっと震えた。我に返って、見ると中年の女性が頭を下げながら通り過ぎて行く所だった。
 また随分と長い間飛んでいたらしい。既にその場に立ち尽くして二分近くが経過していた。
 慌てて買い物カゴの中身と、雲水に手渡された買い物リストを見比べる。入り用な品物は既に揃っていた。ではそろそろ支払いを、と考えて動きかけ、しかしそこから五、六歩と進まない内に野菜陳列棚の前で足が止まった。
 目に入ったのは、薄茶の頭部を寄せ合う茸の山だった。友人の母がハヤシライスと言うといつもこれを入れていたのを思い出して、の口元は無意識に緩んだ。
 (雲水さんも、食べたら好きになるかも)腕を組んだままぼんやりと考え、暫し特売の文字の前に立ち尽くす。決定には数秒とかからなかった。(うん、買おう。口に合わなかったら後で私がお金出せばいいんだし)適当な結論で自分を納得させると、はすいと茸のパックに手を伸ばした。
 が、届かなかった。二の腕を掴まれた感触があって、は再び震え上がった。先程肩をぶつけられた時の比ではない。その掴み方には、指の感触には、何故か覚えがあったのだ。

 振り返った。顔を見た。
 居たのは、とうに消えたと思われた阿含だった。彼はいつの間にかの背後に立っていて、その腕を遏止していた。目が合うと、途端に彼の眼光が鋭くなった気がしては息を飲んだ。
 「それは」と、阿含。低い声だ。
 はごくりと喉を鳴らした。咽喉の引き絞られる音が耳元で聞こえた。これは彼にも聞こえているのだろうか、とは思った。人並みはずれて聴覚の良い彼の事だから、感知しているかもしれない。捕らえようのない何かが空恐ろしかった。
 「…頼まれてねえだろ?」ゆっくりと首を傾けて、阿含が、確認というよりは言い聞かせるように言った。口答えを許さない語調だ。
 「え、あ、あのっ、いやその」
 見下ろされ、どきまぎしては腕を引いた。曖昧な返事しか出来なかった。こういう物言いをしている時の彼に、下手に逆らうのは到底賢明でない気がしたのだ。
 至近距離に立ちはだかったまま、阿含はじっとを睨んだ。彼女の取りかけた野菜に一瞬だけ目をくれてやって、そんな下らない物、とでも言いた気な見下した表情をした。
 「お前さあ、言われてもないのに余計な事すんじゃねえよ。雲水に言われた通りにだけしてろ。分かる?」
 反抗など出来るはずもない。は蚊の鳴くような声で、はい、と呻くように短く返して頭を垂れた。阿含がそのままレジへ歩き出したので、カゴを右腕に提げ、のろのろとそれに続いた。
 腹は立たなかった。自分にも落ち度があるのは分かっていたし、阿含の考えている事も何となく理解出来たので理不尽を感じなかったのだ。
 しかし、意思とは別に痛みは継続した。触られた部分がずきずきした。強い力で押し止められたらしい。こういう事がある度に、阿含は少し、いや少しどころかかなり粗暴な人種なのかもしれないとは思わずにいられなかった。あまり快くはないが、そんな無遠慮な乱暴さにもまた少年との共通点を感じる。
 (……だめだ、これじゃまるでほんとに、)
 二の腕を押さえて、はもやもやとした困惑が持ち上がるのを感じた。こんな馬鹿な事を考えるのは、出来ればもうやめにしたかった。後どれだけしたらこの空虚を忘れられるのか、そこだけが気がかりでならなかった。





***





 往路の裏道とスーパーとの間には、幅広な道路の隔たりがある。一度信号が赤に変わると交通の都合でなかなか次の青が来ないものだから、正直、渡るのは面倒だ。特に荷物の重い日は困ってしまう。普段なら雲水と分け合うから大した重量はないのだが、何せ今日の買い物の供は阿含だ。手伝うはずがない。
 「……阿含さん、オレのこと嫌いですよね」
 「あ?何か言ったかチビ」
 「もういいです…」
 左右に二つずつ(雲水は阿含が半分ずつ荷物を分け合おうと言い出す事を予想したのだろうが、大きな見込み違いだった)膨らんだ袋を持っているので肩を落とすわけにも行かず、げんなりした様相では遠くを見つめる目をした。
 「なんだその顔。不満でもあんのかよ」
 「ふ、不満ていうか、この状況でなんかおかしいとか思わないんですかアンタ!」
 「俺が野郎の荷物持って何か得すると思うか、お前」
 「…思わないですけど」
 程よく絶望した瞬間、信号が青に変わった。
 「阿含さんて、お兄さんのことは好きなんですよね」
 二つ目の言葉はどうやら阿含の耳には届かなかったらしい。は小さな笑みを口端に浮かべると、緩慢に、大股な一歩を踏み出した。




 一歩目、二歩目で、既に横断歩道の半分近くを渡っていた。今や習慣となった動作だ。だがそれがいけない。
 ごう、と凶暴なエンジン音が聞こえてが弾かれたように顔を上げた。バイクが真横に迫っていた。黒いシールドのヘルメットを付けているので、視線が何処を向いているのかは分からない。ただ曲がる気がないのは確かだった。それは道路を横切るへ向かって、直線的に、何の迷いもなく向かって来た。





 ブレーキの音はなかった。バイクが停止しなかったからだ。
 悲鳴もなかった。声を上げる暇もなかったのだ。

 は歩行の際に振り上げた腕を硬直させたまま、内側は半ば放心状態だった。気付いたら道路へ引き倒されて、尻餅をついていた。意識する間もなかった。本当に、本当に一瞬だったのだ。過ぎ去っていた車体の排気ガスを吸うまでは、場の現状も、自身に何が起きたのかすら、まるで把握出来なかった。
 「……お…おれ、もし、かして、いま……」
 「死にかけた」
 阿含が抑揚無く述べた言葉は、確かな事実だった。彼が後ろ襟を掴んで引き止めなければ、今頃は吹っ飛んで全治数ヶ月か、悪くするとお陀仏だったのだ。
 彼の反応は―――どれほどのものかは分からないが―――恐ろしく速いものだったらしい。あのバイクが突っ込んで来た、とが認知した時にはもう目測で数えるほどの距離もなかったのだから、それを見て危険を判断し、咄嗟に手を出したとなれば、奇跡じみた反射神経だ。
 は徐に、地に着いた自分の手の平を見た。角張った細かな石片が刺さり込み、皮膚に軽い創傷と血玉を作っていた。あれだけの速度で突進されて、なのに衝突もせずに、たったこれだけのかすり傷を食らっただけで済んだのだ―――信じられない。どう礼を言えば良いかも分からなかった。まごつき気味に顔を上げた。上方で、阿含が大きく見開いた目にを捕らえているのが分かった。
 平素の彼の人を心底馬鹿にしたような目つきや侮蔑の色濃い笑みは、それらの気配は、片隅にも窺えなかった。明らかなのは混じり気のない怒りだ。それも狂気的な運転のバイクに、ではない、はっきりとに対して、激昂している。烈しい怒気。鮮明な。固く乾燥した、棘のような。その他には何の色もない。
 それは、に妙な恐怖心を植え付けた。こういう真剣な顔をしている時の阿含は、雲水にそっくりだ。鬼気迫る物がある。そして雲水と同じように、まるで思考の読み取れないまっさらな面持ちをしている。

 襟を掴んでいた阿含の手が離れた。殴られるか、蹴られるか、いつも唐突に与えられる暴君の仕打ちに予想がつかずはぐっと身構えたが、意外にもそれらは杞憂に終わった。
 阿含は冷淡なひと睨みを落とすと、地面に転がった荷物の一つを取り上げて、が起き上がるのも待たず道路を渡り始めた。

 (な… 殴ら、ない?)

 何事もなかったかのように去って行く背中を眺めて、はぽかんと口を開けたまま地面に佇んでいた。罵倒もない。拳も、足も出ない。暴力を望んだわけではなかったが、逆に痛みを与えられない事が不気味だった。睨みつけるなんて生易しい代価だけでこれが片付けられて良いのだろうかとさえ思った。
 いっそ恐ろしいぐらいの拍子抜けだった。
 彼の怒り所が分からないと思った。の阿含に対する恐怖材料が、また一つ増えた。













06.06.07