数日は、年や家族構成や趣味、食べ物の好みなどといった話をして過ごした。の住んでいた町のこと、昔の友人たちのこと、雲水が日々頭を痛める弟の悪行のこと、仕事人間で家事をしない困った母のこと―――どれも取り留めもない内容だったが、お互いを知る上で欠かせない作業だった。
 ゆっくりでいい、と雲水は思った。は何事に対しても一々非合理なやり方をするし、手際が悪く、その上不器用だったが、書生としての義務を果たす事に一生懸命だった。
 それでよかった。本当に、本当に何処までも要領に恵まれない奴だったけれども、一度取り決めた仕事の内容には妥協しない彼の頑なやり方を、雲水は割と好いていた。

 「
 「はい」
 「その缶詰空けておいてくれ」
 「はい」
 が流しの脇の棚からさっと缶切りを取り出す。近頃は食器や調理器具の配置も覚えたらしい、手慣れた動作だ。
 「ついでに部屋へ行って、阿含を叩き起こしてもらえるか」
 「え、あ、阿含さんですかっ?」
 雲水の追加注文に、が狼狽も露に缶切りを取り落とす。
 「そ、それは、その、ちょっと、オレの力じゃあ…ええとなんていうか、殺されるかも分かんないっていうか、あの……」
 返答は優れない。普段は一つ返事で請け負う所を、阿含の事となると急に腰の引けてしまう書生に、雲水は苦笑する。
 「まあ、確かにじゃ危ないかもな」
 握っていた盛りつけ用の菜箸を取り皿の箸に置く。汚れた手をすすぎ、脱いだエプロンを椅子の背にかけると、雲水は流しを離れた。
 「雲水さん、行ってくれるんですか?」
 部屋を出ようとすると、が驚いたように顔を上げた。目は輝いていた。
 「書生に死なれると困るからな。ああ、缶詰、そこの皿に分けといてくれ」
 眉を下げて笑いながら、雲水が言った。それは半分冗談で、半分本音だった。
 寝汚い弟は、他人が起こしにやって来るとそれだけでひどく機嫌を悪くするのだ。小柄ななど、もしかすると襟首を掴まれて窓から投げ出されてしまうかもしれない。
 は困っているのか微笑んでいるのか微妙な表情で、キッチンを出る雲水に頭を下げた。
 そうして廊下に出た直後、ギャアッという痛々しい叫び―――きっと缶切りで指でも刺したのだろう。雲水が目を離すと気を抜くのか、すぐこれなのだ―――が耳に入ったので、今日のサラダは血の味がするかもしれないなと雲水は思った。まあ、それだっていい。彼が書生として住み込み始めて、まだ少しも経っていないのだ。





 、という人間について、雲水は少しずつだが理解を持ち始めていた。
 それらは彼の仕草や言動の一つ一つに隠された、注視しなければ気付きもしない陰影のような部分から生じる、細かな、けれども見つけると何となく嬉しくなる物だった。
 たとえば何かつけて度胸のない弱虫のへなちょこの根性なしな彼の、反面、とても諦めの悪い性格とか、飯がまずいとケチをつけられれば(こういう無遠慮な言葉を吐くのは大抵阿含だ)勉強はどうしたんだお前、と言いたくなるくらいに、その晩ずっと必死にキッチンの前で頑張っていたりするおかしな努力家の気質とか、そんな些細な面だ。
 (頭は悪いが、良い子だな)
 雲水はの、そういう他人の為の努力を顧みない姿勢も、無知から来る打算のなさも、なかなか好きだった。
 何せ、それと真反対の俗世の欲まみれの兄弟が常時彼の傍にいたので。





 外を覗くと、西の空に紫と橙の層が薄く輝いているのが見えた。日はまだ落ちていない。夕飯にしては早過ぎる時刻だが、作り終えてしまったからには食べなければ冷めてしまう。
 緩い歩調で階段を上り、廊下を歩き、阿含の部屋の前までやって来ると、雲水はそこで一旦足を止めた。寝起きの彼を起こすには、生半可な気持ちの準備ではとても足りないのだ。腹に力を込めて、大きく呼吸する。
 ふと、雲水はドアの隙間から薄く漏れる光に目を奪われた。
 (……そういえばあいつ、最近よく家にいるな)
 よくいると言っても、あの弟にしてみればの話だ。勿論、女遊びや喧嘩は彼のしようもない生き甲斐の内でも重要な要素だし、絶える事はない。
 阿含は家族に遠慮がない。他人の気持ちなど絶対に顧慮しない。
 大抵の場合、彼は自身の物でない甘い匂いや赤い染みをくっつけて街から帰り、ただでさえ心労の絶えない兄をまた心の底からうんざりさせ、ただでさえ彼に対して萎縮の感のあるをますます震え上がらせる。何遍注意しようが説教を叩き付けようが、ここだけはちっとも変わらない。
 しかし近頃は―――そう、近頃の阿含は悪いばかりでもなかった。雲水は弟の、朝帰りや外出時間の僅かな減少を見抜いていた。反比例して、家で食事をとる回数が増えている事も。
 まずいまずいと文句を垂れるくせして、あのはた迷惑な浮き草男は、夕飯時になればちゃんと自分の巣へ舞い戻って来るようになったのだ。劇的な変化だった。
 阿含に脅えているにしてみれば良い迷惑かもしれないが、弟の自堕落だった生活習慣が――今も十分自堕落だという事にはいっそ目を瞑ろう――少しでも改善されつつある事を、雲水は少なからず喜んでいた。こういう生活が継続される内に彼の中にもっと目覚ましい変化が訪れて、いつかは規則正しく三食を家で済ますようになれば良いとも思った。それこそ肝の小さな書生は発狂してしまうかもしれないが。

 「阿含、飯だぞ。起きろ」
 「…寝てねえよ」
 ドアを激しくノックしてやると、弟の部屋から低く潰れたような声が返って来た。雲水はこれに少しばかり驚かされた。あの阿含がもう起きている。
 鍵のかかっていないノブを回して中に入ると、室内の隅に配置されたベッドの上で壁に凭れ、足を行儀悪く大股に開き、欠伸をしている弟を見つけた。
 シーツの上にはMD、雑誌、衣類が思い思いの形で散乱している。綺麗にしろ片付けろと何度も言っているのに、その通りになった試しがない。俺は天才だからと威張って誇らしげにするくせに、整理だけは幼少期から破滅的に下手な男なのだ。
 「寝てなかったんだな。珍しい」
 「お前らのおしゃべりがうるさくて寝れなかったんだよ」
 「俺たちの話が気になったのか?なら来れば良かったのに」
 「ふざけんな」
 「ああそうだ阿含、どうせ来るならついでに野菜を切るのを手伝ってくれると嬉しい。はよく流血沙汰を起こすんだ」
 「手伝わねえし知らねえよ」
 苛立った様子で、阿含が舌打ちする。彼の堪忍袋の強度を考えると、これ以上は刺激を与えない方が良さそうだった。
 雲水は散らかり放題の混沌とした室内を一瞥すると、さっと踵を返した。もう溜め息も出なかった。弟のこういった粗暴な態度に、彼は慣れきってしまっていた。
 嘆息とは違う軽い息を吐いて、雲水は目を閉じた。そのまま歩き出しかけた。けれども最後に一度、ちらりと確認するように振り返ると、言った。
 「早く来るんだぞ」
 「うっせえよ」
 寄越されたのは鬱陶しそうな返事一つだった。(それだからあいつに怖がられるんだ、お前は)小声で言ってやろうかと思ったが、気短な弟の反応を考えるとそうする事も馬鹿げているので、やめておく事にした。無駄な争いはしたくない。
 その時、ふと雲水は、今夜食卓に並ぶかもしれない血の味のするサラダの事を思い出した。なので喉の奥に収まった皮肉は忘れ、代わりに「絆創膏を持って来てくれ」とだけ言いおいて去った。
 理由はあえて言わなかった。どうせ阿含だっての情けない半泣きの声は聞いていただろう、と思ったのだ。
 そしてそれはきっと正しかった。恣意で凶暴な弟は彼なりのひどく伝達し難いやり方で、けれども間違いなく、あの頼りない書生っぽの事を気にかけていたのだ。
 雲水には確信があった。穏やかな確信だった。











06.05.18