(やめて! 切らないで!)

 その晩が悲鳴と共に目を覚ましたのは、突如として腹にやって来た痛みの為だった。
 それは体の内側に起こった。いや表面だったかもしれない。
 悩むにしても過ぎてしまった事なので、には判別がつかなかった。
 ただ、気付けば無我夢中でそこを押さえていた。幼い頃に母と管で繋がっていたその場所。閃くように激痛の過ぎて行ったその場所。へその真上。指は痙攣していた。
 (……また、むかし…の、ゆめ?)
 ごくり、と鍔を飲む。耳の奥深くにきいんと高い、細長い耳鳴りが差し込まれる。
 俯いて、は唇を噛んだ。中で、何かがじわりじわりと沸いて来ている。溢れたものが外へ出て行きそうになる。血かもしれない、とは思った。
 けれどもそれは彼女の過ぎた思い込みでしかなかったし、彼女自身も本当の部分ではそれを知っていた。血など流れるはずもなかった。そこはとうに塞がっている。とうの昔に。
 (らしくもないや……馬鹿じゃないの、私)
 そう暑い夜でもなかったはずなのに、寝間着が汗でびしょっり濡れている。気持ちが悪い。顰め面のまま、は視線をふいと窓の外へ向けた。
 日は既に昇りかけていた。東の空を穏やかに覆う朝焼けの色があった。早起きの鴉が数羽、住宅街の上空を飛んでいる。彼らだってこんな早朝から飛び回るのは嫌に違いない、生活の糧を得る為仕方なくそうしているのだろう―――ああ、そういえば今日は生ゴミの日だったな、とは思い出す。同時に、キッチンのゴミ箱を埋めるバナナの皮や野菜の残り屑の事が脳裏を過って行った。

 あれらを始末するにしろ汚い寝間着を洗うにしろ朝食を作るにしろ、とにかく起きない事には何も始まらない。体が二つに千切れそうな伸びをして、は息を吐いた。へその辺りがまた鋭く痛んだが、気付かないふりをしてやった。
 足裏に感じる乾いた床の感触に、今日は暑くなるのだろうな、と思った。





***




 しゃあしゃあ、ホースが水を吹いている。庭の植木に落ちた水滴が日差しを受けて、白い光を放っている。目に痛いほど青々と茂った草木に、縁側の雲水が深い眼差しを落とす。ホースは彼の手に握られている。
 は、静かな呼吸でそれを眺める。夏休みに入って、金剛家にお世話になり初めて、けれども未だに雲水が読めない。彼の考えている事がまるで分からないと思う。雲水という人は、思考の仕草がなくともいつも何かを考えているように見える。奇妙な感じだ。強いて言うなら、悟りを開いたような状態なのかもしれない。
 雲水の隣で、それと気付かれないように彼を観察しながら、は軽く足を揺らした。ぎいと縁側の板の鳴る音にも気付かないほど、頭が朧で、重い。
 「今日はやけに眠そうだな。ちゃんと寝てるのか?」
 うつらうつらし始めたを見兼ねてか、雲水が苦笑した。浅く、吐息だけで笑い返して、は目を伏せた。
 「最近ちょっと、夢見が悪くて。夜中によく目が覚めるんです」
 「ホームシックか?」
 「んー、そういうんじゃないんですけど…」
 言葉に詰まって、指をこねる。会話は一旦そこで途切れて、再びホースの放水音が二人の鼓膜を満たすようになった。


 (……あ、今朝の。もしかして雲水さんに聞こえてたのかな)
 ふと思いついて、は不安になった。
 あの明け方の悲鳴。自身には一瞬の物に感じられたが、もしかすると実際は違っていて、雲水の睡眠を妨げたかもしれない。不快にさせたかもしれない。何せ真夜中の絶叫だ。
 自分の寝不足の余波なんかに彼を付き合わせたんだとしたら、それはとても申し訳ないなとは思った。とりあえず謝っておくに越した事はない。


 顔を上げ、口を開きかけた。すると雲水と目が合った。
 彼はこちらを見ていた。ホースはまだ水を吐き続けていたが植木には向いておらず、ただぼたぼたと乾いた地面に水たまりを作っているばかりだった。
 彼は先程の、話し終えたままの姿勢でを見ていた。真っ直ぐな黒い目は、の虚ろなそれとはまるで対照的だった。瞳は動かなかった。ぶれもしなかった。彼はずっとを見ていた。
 「……え。えーと」
 中途半端な声音が舌先を零れて行く。ひくりと喉が鳴る。
 「えーと、叫んだの聞いてましたか」と切り出すつもりだったのか「えーと、どうしてこっち見てるんですか」と訊く気だったのか、自分が何を言いかけたのかも最早忘れていた。
 悪い事もしていないはずだ、のに、何故か視線が宙を泳いでしまう。現状を簡潔に表すなら、とにかく気まずいの一言だ。
 そうしてややあってから、
 「……あの子供に会いたいか?」
 今度は雲水の方が口を開いた。
 「こっ、子供?」は思わず間抜けた声を出した。
 「子供…って…あ。リ、リボーンですか!」
 「ああ。そういえばそんな名前だったな」
 雲水が頷く。またを見て、訊く。
 「で、会いたいのか?」
 「え。い、いやオレ、別にあいつの事なら、良いんです。 眠れないのは、もっと全然別の事で…」
 「別の事?」
 「あっ、う、ウソっ。何でもないです!」
 苦しい言い訳だった。慌てぶりも隠蔽も見え透いている。取り繕うにしてももう少しマシなやり方があっただろうに、はそういう方面がからきし苦手だった。吐いた嘘がまるごと裏目に出てしまう性なのだ。
 雲水は長い事眉を顰めたままを凝視していたが、その内に納得が行ったようで、ふっと顔を緩めた。
 「なら良いんだ」と、彼は呟いた。
 何が良いのか、彼の中で何が生じて解決したのか、にはてんで分からなかった。せがむような目つきで横顔に見入っていると、雲水は気付いたらしい、重々しく眉を下げて、逡巡と困惑の入り交じった複雑な表情になった。
 「……悪いな。深い意味はないんだ。 ただ、お前がこの家にいるのを俺は近頃当たり前みたいに思ってるのにお前の方がずっとあの子供を恋しがってるなら寂しいと思ってな。少し聞いてみたかったんだ」
 声がだんだん低く、遅くなって行く。
 「お前がいると、俺にもいい弟が出来たみたいな気がする。もうずっと前から一人弟がいるっていうのに、変な話だけどな」
 雲水が目を細めて不器用に笑った。
 その言葉が本音なのは分かっていた。彼はいつも真剣で、正直なのだ。
 (ちがう。いい弟なんかじゃないです。私、ほんとは)
 胸が締め付けられるように痛んだ。は目を伏せた。頭の中で、誰かの叱責が響いていた。お前は嘘ばっかりだ。あんな良い人たちを、欺いてばかりいる。違う、とはそれを振り払おうとする。そうするしかないのだ。だって、これも命令なんだから。
 「……お、オレも、雲水さんといると、お兄さんってこんなカンジかなあって思いますよ。いっつも頼れるし、やさしいし、オレよりずっと料理上手だし……」
 ぼそぼそとは喋った。難しい事を考えようとすればするほど、頭がぼやけて来るのが分かった。

 睡魔がのさばり出した。思考力が失せるのと連動して、体の重心が不安定に揺れ出した。左右に体がぐらついて、次第に一方にだけ傾くようになった。気が付くと雲水の肩に頭が乗っていた。は、けれども動こうとはしなかった。雲水は何も言わなかったし、そうした事で驚きもしなかったし、何より眠くて仕方なかったのだ。
 「きのう。昨日、夜、恐い夢……見たんです。それで、けさ、早く起きて…」
 言い訳のつもりでこんな話をしているのだろうか。は虚ろに考えた。舌が上手く回っていない。頭も同じだ、まともに稼働していないのだろう。なのに、唇ばかり忙しく動いている。寝入りばなの感覚と似ていた。意識を持って体を動かしている実感がなかった。
 「…ねえ、雲水さん、へその緒って、あるでしょう。あれ、切ったらピンで止めなきゃいけないんですよ。血が止まらないから。それから、消毒してあげるんです。赤ん坊の、へその緒」
 自分でも何を言っているのか分からない。口を突いて出て来る言葉はどれも支離滅裂だった。
 「さいきん、夢の中で、ありえないものが見えるんです。ぜったいそんなの、覚えてるはずもない、のに。 なのにオレ、まるで本当に見て来たみたいに、はっきり覚えてるんです。鮮明なんです。うそみたいに、全部が、ほんとっぽいんです」
 一貫性のない奇妙なおしゃべりが、だらだらと続く。本気に取ってくれているのかは分からないが、雲水は嫌な顔一つせず聞いていてくれる。それがを安心させる。より深い眠りが、混沌とした黒が、瞼の内側に広がって行く。
 「かあさんが、オレのこと……産んで、すぐに…切っちゃうんです。へその緒、結びもしないで。だから、血がいっぱい出て……置いてっちゃう……帰って、来ないんです。帰ってこない……」
 ずっとかえってこない。囁いて、は目を閉じた。それ以上喋っていられなかったのだ。
 庭のプラントはどれも青かった。あまり種類はないが、手入れは怠っていないのだろう、見苦しく枯れ果てたものや茂ったものは見当たらなかった。辺りに漂う乾いた空気はこうも暑苦しくて、やって来た日と何一つ変わっていないのに、今日はすごく落ち着くとは思った。理由は分かっている。隣にいるからだ。雲水の隣にいるからだ。あらゆる物が朧な中で、そこだけがはっきりとしていて、は不思議に良い気分だった。








 『なにそいつ。寝ちゃってんの?』
 『ああ、昨日良く眠れなかったみたいで寝不足らしいんだ』
 『ふーん。じゃあ雲子ちゃん、それちょっと借せよ』
 『なっ…よせ馬鹿! 何する気だ!』
 『ぶっかける』







 ―――しかし、束の間の安息は冷水の襲撃という思いがけない形でぶち壊される事になる。


 びしゃり。顔に水の張り付く感触。
 眠気はいっぺんに醒めた。
 「っぎゃあああ!!つめたっ!」
 「こら阿含!何でお前はそうやって……」
 「あ゛ーうるせえな。二人して和んでんじゃねえよ」
 そんなに長い時間微睡んでいたはずはないのだが、気が付けば目の前に阿含がいて、穏やかだった雲水が鬼のような顔で怒声を発していて、それだけでも一体何が起こったのかと思うのに、そこへ付け加えて上から下まで水を被った自分自身がいる。
 は暫し目を見開いたまま立ち尽くした。
 勢い良く放水するホースの持ち手は、雲水ではなくなっていた。阿含だ。思わず頭突きでもかましてやりたくなる顔で(実際の所、そんな事をすれば半殺しでは済まないだろう)にやにや笑っている。ここまで見せつけられてなお状況把握に困るほど、も馬鹿ではなかった。
 「な……なに、なにすんですか阿含さん!」
 「水かけた」
 渾身の力を込めて怒鳴ったはずが極々冷静な態度で、しかも事も無げに返され、はうっと詰まった声を出した。
 「そ、それは誰でも分かりますけど……っていうか、どうして家にいるんですかっ!?こんな微妙な時間帯から!」
 「寝てた。お前のクソでかい声の所為で、寝不足」
 「え……す、すいませ…」
 「許さねえし」
 無慈悲な返答。が真っ青になるのも構わず、阿含はホースを正面に向ける。ゴム質の口を押さえる指に力がこもる。
 弟の行動に関しては脊髄反射並の速度を誇る雲水の制止も、こればかりは間に合ってくれなかった。
 「い、いたっ!いたいいたい、阿含さんやめて、いた死ぬ!」
 「死んでろ」
 その日、金剛家の小さな庭には少年たちの悲鳴、怒声、罵声が響き渡り、後日近所で『金剛さんちにやって来た書生さんが虐待を受けている』という不穏な噂が流れたとか、流れなかったとか。













06.05.13