よろよろ、ふらふら、覚束ない。
 何処か生まれたての子鹿を彷彿とさせるその立ち姿は、同じ年頃の男児にしては、随分と頼りなく、弱々しかった。
 書生が金剛家の呼び鈴を鳴らしたのは、正午ごろ。時計の短針と長針が12で合わさる一歩手前だった。
 見るからに重そうな荷物を自転車の前かご、喪服のような黒いスーツを着込んだ奇妙な少年を後ろに乗せ、満身創痍といった様相で、彼は戸口に立っていた。
 「こ、こん、にちは……」
 書生はハンドルに手を置いたまま、雲水に向かって力なく頭を下げた。そうしなければ車体が荷物のとてつもない重量で傾いでしまうのだ。
 雲水が挨拶を返すと、彼は汗だくの、やつれた、今にも死んでしまいそうな顔で「お世話になります」と呟いた。やっとの思いで喉から絞り出したであろうその声は、八月のぎらぎらとした酷烈な暑さに潤いを根こそぎ吸い取られ、嗄れてしまっていた。
 雲水はひとまず自転車を車庫に置くように言い、それから二人を家へ招き入れた。空調の効いた居間へ案内してやると、青年は憔悴しきった顔を俄に、薄らとではあるが目に見えて輝かせ、控えめな小さいお辞儀をした。
 麦茶を勧めてやればやはりまた気後れした調子で礼を言い、受け取った。自己主張の少ないタイプなのだろうか、如何にも生活苦の書生らしい、若さの割に気苦労の多そうな顔をしている。
 妙な所で気が合うかもしれないな、と雲水は密かに思った。彼もまた、苦労の絶えない人間だった。



 「東京から、自転車でここまで?」
 冷房の設定温度を20度まで下げると、部屋はあっという間に真夏の不快感を跳ね飛ばして、キンキンに冷えた。少々行き過ぎたかと思うほどの肌寒さであったが、熱に火照った体にはこのぐらいが丁度良いようだった。
 「ええ…まあ。ちょっと、その。色んな事情がありまして」
 書生は幾分全体に明度を取り戻した表情で答えた。
 何か訳ありなのだろうか、口調の所々に不可解な淀みや翳りが見られたが、それでも先程の死相剥き出しの状態よりはずっと良かった。
 「……そういえば、名前は……」
 麦茶をもう一杯勧めようかと考えた所で、雲水はふと気付いた。書生をどう呼んでやれば良いのかが分からなかった。
 早々と異国の地へ旅立ってしまった両親は、新たな来客という重要事項について、彼に何一つ報せて行かなかったのだ。
 「あ、オレです。。 あの…金剛雲水さん、で良いんですよね?」
 「知ってたのか?」
 雲水は目を丸くした。
 「一応、お世話になる身なので……」
 照れたのか、書生、は微笑みながらもはにかんだ様子で「いや、でも、間違ってなくて良かったです」と言い添えた。青白い彼の肌膚によく似合う(というのも不思議な話だが)、幸薄そうな笑顔だった。
 雲水は彼を、何かと鈍臭い感じはするが、人の良さそうな青年だと思った。冷風と水分から生気を得た彼は、出会い頭と打って変わってこざっぱりした印象だった。

 「お二人さん、和んでるとこワリーが」

 不意に下方から声が伸びて来た。雲水との目が同時に斜め右下を捕らえた。
 声の主は、黒服の少年だった。自転車の尻に悠々と跨がってやって来た、珍妙な中折れ帽子の、黒白のコントラストの効いた、あの彼だ。
 「俺はそろそろおいとまさせてもらうぜ。もう時間もあんまりねーしな」
 ハードボイルド映画の主人公のような、年不相応にニヒルな笑みを浮かべて、少年は言った。「金剛さん、そこの役立たずの馬鹿、どうか捨てずによろしく頼むぜ。あと、出来るだけ厳しく扱いてやってくれ」するとが訴えるような咎めるような暗く寂しげな目をして、それから小さく、リボーンと呟いた。
 それが黒衣の少年の名前らしかった。日本人離れしたその響きに雲水は驚いたが、あえて質問はしなかった。少年は既に荷物を片手に、立ち上がろうとしていた。
 「……もう…帰っちゃうのか?」
 「あン?寂しいかよ」
 小馬鹿にした調子で少年が笑う。片頬を微かにねじ曲げるだけの、冷めた表情の作り方。ソフィスティケートされたその仕草は、およそ幼い子供の物には見えなかった。
 彼は酷薄とも言える眼差しで、しかし長い事、足下のを見つめていた。それからある時、見限ったようにふいと視線を逸らした。
 (こんな人間が我が家にもいたな)雲水の頭を朧げな追想、と言うにはまだ生々し過ぎる記憶が、ざらりとした触感と共に横切って行った。―――あの男もこれにそっくりの、いやこれ以上に生意気で理知的で、人を見下したどうしようもない性情と、手に負えない奔放な邪悪を備えていたのだ。
 「ま、待ってリボーン! さ、寂しいっていうか…オレ、もっとお前に聞きたい話とか、もっと、あって…」
 「そりゃのろのろしてた自分が悪ぃと思って諦めろ。俺もこれ以上長居しちゃいらんねーんだよ」
 少年は、おもちゃの銃――すくなくとも雲水にはそう見えた物を、片手でくるくる回して弄びながら、その年頃の子供にしてはやけにこましゃくれた、世慣れしたふうな動作で、後ろ向きにぶらぶらと手を振った。
 「次はいつ会えるの?」
 少年の背に、か細い声が追い縋る。黒いスーツは、しかし決して振り返る事はない。
そういった彼の性質もは承知しているようで、諦め混じりの悲しげな目をするだけで憤る素振りは見せなかった。
 「さあな。楽しみにしとけ」
 おざなりな返事。少年は腕時計に目を遣りながら、居間を後にした。
 引き止める間もなかった。まるで名残惜しみを感じさせない颯爽とした足音が廊下を直進して行ったかと思うと、玄関へ辿り着いた所でそれはドアの開閉音に変わった。
 金具の噛み合わさるがちゃんという無機質な響き以降は、壁に隔たれてしまい、ぱったりと聞こえなくなってしまった。
 彼ととの縁故について聞くべきか、雲水は迷った。が、残されたがあまりにも惨めでしょぼくれて見えたので、ついに何も言えなかった。
 暫くは触れずに置いておくべき話題だろうな、と思った。





***





 表の通りにぽつぽつと街路灯が灯り始めている。蝉の声にも、昼時ほどの暑苦しさはない。剥げかけた金箔を上に塗り付けたような、浅い色沢を帯びた小振りの月が、東の空にぽつりと浮いている。
 夕餉時だった。九時までに帰ると言って真夜中に門をくぐる事を罪悪感もなく平気でやってのけるあの阿含が、その日は珍しい事に、大変珍しい事に、予告通り帰って来た。
 どうせ今日も寝静まった頃に帰宅するのだろうと高をくくっていた雲水はひどく驚き、カボチャの煮付けを取り落とすほど動揺したものだったが、(あれはあれなりに、新しく家に住み着く客人を気にかけていたのかもしれない)とすぐにそれらしい理由を見つくろって、一人納得した。そうしなければあまりに不気味で落ち着かなかったのだ。
 しかし帰って来るなり荷物をぶん投げ、部屋の隅の箪笥に激突させる弟に、雲水は数秒前の驚嘆と感心をいとも簡単に忘れ、怒りのボルテージをうなぎ上りで上昇させつつあった。気を抜けば今にも沸点に達してしまいそうな、猛烈な勢いだった。
 が、客人の手前それは避けた。いや、避けるべきだろうと判断したのだ。
 せめて今日ぐらいは平静でいるよう努力しなければならない。雲水はゆるく首を振って、息を吐き、フローリングを無遠慮に音を立てて歩く弟に声をかけた。
 「……早いな阿含。飯はどうして来た?」
 「まだ食ってねーよ。 今日、なに」
 「母さんの作り置きの煮魚だ。見て分かるだろ」
 「分かんね」
 可愛くない口を叩きながら、阿含が食卓の椅子、雲水の正面にどかっと腰を下ろした。雲水には、斜め前のが、ぶわっと毛を逆立てたのがはっきり見えた。頬は脅えて色がなく、表情筋は固くなっている。
 しまった、と雲水は内心舌打ちした。配置ミスだ。適当に席なんか選ばせたのが良くなかった。
 が座っていたのは、阿含の左隣だった。
 「ん? あー、こいつが親父の言ってたやつな」
 黄色い、半分形の崩れかけたカボチャを眺めていた阿含の両眼が、不意に鋭くを捕らえた。びくり、と小さな肩が跳ねる。(頼む、その短気の気に障る事だけはしてくれるな)雲水は半分祈るような気持ちで二人を見守った。
 「ど、どうも…お世話になります…」
 緊張か、それとも警戒からか、おずおずと上目遣いでが頭を下げた。声は随分と低い。箸を握ったままの手が小刻みに震えている。
 阿含は気怠そうに、さして面白くもなさそうに、けれども隅々まで抉り出さんとする目つきで、血の気の失せて真っ白になったその顔を、眺め回した。
 それはお世辞にも男前とは言えない輔だった。持ち前の貧弱さ、気弱そうな表情も手伝って、頭の天辺で結い上げられた長い黒髪や困ったような下がり眉は、ただでさえ男として曖昧な風采をした彼を、余計に女々しくなよやかな生き物に見せていた。
 地味な顔、と阿含は思った。しかし同時に何処かで見た顔だった。明確に思い出せる物ではないが、似たような造りの顔を見た覚えがある。
 そう、確かあれも稀に見る童顔だった。頬骨の出っ張りもない。捻れば軽く折れてしまいそうな首。不確かな体格。肩幅も、縦の厚みも、浮き出た筋も、筋肉の隆起もないほっそりとしたフォルム。そういうディテイルにおいても、よく似ている。(そもそもあれ男だったか?)思い出そうにも、元が不確かだ。記憶力は悪い方ではない。ただ、どうでも良い事柄はすぐに忘れて行くタチなのだ。
 阿含は考えるのをやめた。そうして今度は書生の顔ではなく、不安げな目に焦点を合わせ、言った。
 「……お前さあ、だっけ。名前」
 「えっ なっ、なんで」
 なんで知ってるの、と言いたげに、しかし言葉に詰まった顔でが目をぱちぱちやる。
 これには雲水も驚いた――書生について、親からの説明はほぼ皆無だったはずだ――が、
「外からお前らの話してんの聞こえたんだよ」
という阿含の一言で、すぐさま疑問は解消された。そうだ、弟は耳もずば抜けて良いのだ。家の外から他人の話し声を聞くぐらいは、彼にしてみれば、造作もないのかもしれない。
 「に、人間離れしてますね…聴覚」
 「凡人とは造りが違ぇんだよ」
 言いながら、阿含は比較的形の崩れていないカボチャを選んで、ぶすりと箸を刺した。行儀の悪さを咎める兄の小言など聞こえてもいないかのような鷹揚とした動作で、彼は、捕らえた獲物を口に運ぶ。
 と、出し抜けにの口から苦笑が漏れた。
 「……なんか、阿含さんって、オレの友達に似てますよ」
 その言葉に、雲水は一瞬あの黒い中折れ帽子の少年を思い出し、口を開きかけたが、結局何も言わなかった。
去って行く少年の素っ気ない後ろ姿と同時に、縋るようなの目が、脳裏を過ったからだった。











06.05.06