自転車のハンドルに置いた掌がじっとりと湿っている。
 本格的に夏がやって来たらしい。
 軽く息を吐くと、はペダルに押し付ける足の力を僅かに弱めた。かれこれ10分は上り通しでいる。長い坂道。気の遠くなるような日向の道路。何処まで行っても同じ風景しか見えて来ない―――鬱陶しいほど活力に満ちた濃緑色の並木、平らな灰色のアスファルト、そこへ所々引かれた白線と、子供の落書きらしい色とりどりのチョークのあと。
 (ああ、ホントなんにもないな。ホントに…田舎だ。私、田舎の道をこいでる)
 灼けた地面をじっと見つめていると奇妙な感慨が沸いて来た。
 同時に押し寄せて来る、目眩。
 は太陽にはめっぽう弱い。虚弱、貧血と併せて幼少から変わらない厄介な性質だ。
 ぐらり、と体が横によろめいて、は咄嗟に軸足で踏みとどまった。すんでの所で車体ごと転倒、という小さな惨事は避ける事が出来た。
 「おい怠けてんじゃねーぞ」…にも関わらず背後から不満げな声がかかる。
 正体は分かっていた。
 自転車の尻に跨り、堂々とふんぞり返った少年に、はきつく奥歯を噛み締めながら、精一杯の威嚇の目つきを作って振り向いた。
 殺意濃厚な眼光を一身に受け、けれども当の少年は至って涼しい顔をしている。当然だ。こいでいるのは彼ではなく、ずっと、サドルに座り通しのなのだから。
 「……ほんっっとーに性悪のスパルタだね、リボーンは」
 恨めしげな声でじっとりとが囁けば、彼は広鍔の黒い中折れ帽子を小粋に傾け、つんとすました笑みを浮かべて見せる。憎たらしいほど優雅な仕草だ。
 「スパルタ? はん、当然だ。俺ぁ家庭教師だからな」
 「でも私の家庭教師じゃ…」
 開きかけた口を、少年、リボーンが素早く手で遮る。
 意味する所は、黙れ、だ。やってしまったとは思った。仕方がないので息を飲んで押し黙った。見上げる双眸が、ぎらぎら光って恐ろしかった。何処が悪かったのかは、言われずとも分かっていた。リボーンが彼女に何より強く言いつけていた事だ。それをぽろりと忘れていたのだ。
 「『私の』じゃねえ。『オレの』だろうが」
 冷淡な黒い目が苛立を如実に語っている―――ばかやろう。何度言ったら覚えるんだ、この能無し―――そんな言われてもいない痛罵を浴びている気になる。
 それから一拍置いて、彼は口の先から手を退けた。喋っても良いという合図だ。
 は眉間に皺を寄せて、思い切り息を吸い込むと、反抗期の子供が親にそうしてみせるように、わざとらしい滑舌の良さで言い直してみせた。
 「……でもオレの家庭教師ってわけじゃ、ない、だろ」
 「そうだ。それでいい」
 見かけだけは満足げにリボーンが頷いた。腹の内までは分からない。そういった内面的な物を軽々しく暴かせる人ではない。彼は、奥が深く計り知れない。年はかけ離れているのに、の方がまるで子供の扱いだ。
 (リボーンは態度がでかすぎるんだよ……誰にでもこんななのかな?)
 腹は立つが、口でも力でも敵う相手でないのは承知していた。それに、喧嘩をふっかけた所で無意味だという事も。そもそも彼に従う事は務めだ。それも自身の決心で取った選択なのだ。今更ねじ曲げたりはしない。出来ない。
 彼が正しいのも、頭の一番深い所では理解している。
 「、てめえ自分が影武者だって事を末期まで忘れんじゃねえぞ」
 「誰が見てるか分からねえ外じゃ特にだ」
 「タッパどうの声どうのは変えられるが、中身だけは本人に似てなきゃ致命的だからな」
 「おめーもファミリーの一員として恥ずかしくない女になれよ」
 「こっちはもう一個出来の悪い生徒がいるんだぞ」
 「今回の長期逗留も訓練の一環だからな。ぜってーあちらさんに女だってバレんなよ」
 気の遠くなるような説教を右から左へ一通り聞きながすと、は一度頷き、適当に応答を寄越して、再び自転車をこぎ始めた。

 「あ。そういやさ、なんで電車とか使わないの?」
 「ん?なんだもう苦しいってか」
 「いやそういうんじゃないけど……だって東京・神奈川間って相当だろ」
 「足腰鍛える訓練だ。てめーの体が貧弱なのはこの間の件でよーく分かったからな」
 「なっ……あ、あれはお前が神奈川に下見に行くぞなんて行ったから!」
 「うるせーうるせー。でかい声で怒鳴んな」

 その後も何度か食って掛かろうと試みたが、結局リボーンから返って来た「黙らねえと撃つぞ」の一言にて全て一蹴された。傍若無人にも程がある。
 (ていうか……)
 手の甲で汗を拭う。目にかかりそうになる髪の毛を払ってみたりはするが、あまり効果がない。ぜえぜえぜええとはしたない息をつきながら、はこぐ。一心にこぐ。けれども、日差しが強くて、思ったように力が出せない。じれったい気持ちになる。
 体重をかける度に、サビかけたチェーンががちゃんがちゃんとひどい音を立てている。そろそろ替え時か、お金ないんだけどなぁ、などと取り留めのない思考を巡らせながら、重いペダルを泥沼に思い切り足を突っ込むような気持ちで踏む。
 無意識に口を開くと、喉元を掠れた熱い吐息が出て行った。
 酸素が薄い。こうだらだら呼吸をしていると逆に疲労が募る一方だとふと思い至って、歯を食いしばり、今度はぐっと体を前傾させてみた。速度はあまり変わらなかった。
 空が、地面が乾いている。木々をかさかさと微かにざわめかせる物はあったが、風と言えるほど爽涼な流れではなかった。植物は何故萎れないのだろう。
 (こんな、汗だくで行ったら、むこうの人絶対ヒく……よ…)
 余計な事を考えて軌道が揺れる度に、背後から叱咤やら罵倒やら暴力が飛んで来るので参ってしまう。彼はこちらの苦労をなんだと思っているのだろうか。何とも思っていないのかもしれない。


 とにかく進む外なさそうだ。
 水に飛び込む準備でもするようにはぐっと息を詰めた。
 終着点は、まだずっと彼方にあった。





***





 夏休みに入って五日目の朝だった。
 まだ太陽が完全に昇りきらない内から外はじりじりと暑く、家の前の通りを行き交う人の姿もほとんど見られなかった。早くから鳴いている蝉の声以外は静かな日だった。
 「今日からうちに書生を置こうと思う」
 妻と二人の息子が朝食の席に着いた所で、唐突に父が言った。あまりに意表外な言葉だったので、雲水は声を出さずに驚いた。意図せず阿含の皿に醤油を零してしまったほどだ。
 阿含もこれには少しばかり不意をつかれたのだろう。箸の動きを止めて、醤油を零された事にも気付かないでいる。膠着した空気の中で、母だけが平然としていた。
 「母さんに言って、数週前から使わなくなった納戸を空けてもらってる。書生部屋にはそこを充てるから、お前達は別に部屋を動かなくても良い」
 ポテトサラダを自分の皿によそいつつ、父が言った。
 書生―――他家に住み込み勉学をする傍ら、家事を手伝う若者の呼称だ。これまで金剛家の家事と呼ばれる一切を担っていたのは雲水で、というのも本来それを任されるはずの母が根っからの仕事人間である所為だった。
 特に暮らしに困っているわけではない、ただ彼女自身が仕事を愛しているだけだ。よって母は頼りにならない。阿含は勿論手伝わない。雲水は、この途方もない四面楚歌の忙殺状態が二分割されてくれるのなら書生も悪くはないかもしれないと考えた。―――が、すぐにふつふつと怒りが沸いて来た。
 なぜ父は他人が家に住むという、こんな重大な事を当日になるまで息子たちに言わずとっておいたのだろうか?
 「……なんでもっと早くに言ってくれなかったんですか」
 「お前たちと顔を合わす機会がなくてな。雲水、お前は朝から晩まで部活だし、阿含は外で毎日遊び呆けて…」
 「だったら手紙なり何なりあったでしょう、やり方が。母さんに伝えさせるとか。今更言われたんじゃ俺も阿含も何も用意出来ない」
 「用意とか堅苦しい事はいらないと、あちらの家が言っていた。奉公人のつもりでこきつかってやってくれ、だそうだ。お前も固くならずに接しなさい」
 「………」
 お前、の対象に含まれているのが自分だけだという事を雲水は悟った。聡い弟も察しているだろう。そしてそこに何の疑問も抱かないのだろう。書生がいようがいまいが、どうせ彼は夜更けまで帰って来ないのだ。
 もう何事もなかったかのように卵焼きを頬張っている阿含を見て、雲水は暫し沈黙し、目を閉じた。それから再び父を見据えて、訊いた。
 「苦学生なんですか、その人は」
 「さあ、なあ……詳しい事は分からないが、大学入学のために資金を残しておきたいから高校は通わずに、大検を受けるらしい。 親御さんは生活苦、というふうな身なりではなかったんだが…」
 返って来たのはあまりにも曖昧な返事だったが、雲水の気を引いたのはそこではなかった。
 「高校生、なんですか?」
 「ああ。お前たちと同じ年頃か…それより小さいかもしれない。本人とは電話でしか離してないが、礼儀正しくて感じの良い子だったよ」
 「……そうですか」
 書生と言うから、てっきり大学生ほどの大きさの人間を想像していた。やって来るのが年上でないと知って、言葉遣いに気をつけなければならない相手が家に増えるのが気がかりだった雲水は、少しばかりほっとした。
 しかしそれも束の間だった。
 「それじゃあ」
 朝食をとり終わるなり、さっさと父が箸を置いた。見れば、母も自分の食器を洗い終えて、既に身支度を始めている。
 「私達はこれから出かけるから」
 「…どこに?」
 「海外だ。書生さんにはもう家事を頼んである。暫くは……そうだな、夏休みの間は少なくとも帰らないだろうな。生活費はいつもの口座に振り込んでおくから。 くれぐれももめ事は起こすなよ雲水、阿含」
 「…………」
 母の足下には長期出張用の巨大なトランクがあった。
 冗談ではないらしい。父は、家族サービスで遊園地へ日帰りで出かけて来るくらいの気軽さで微笑みながら―――今更、と言いたくなるほど事を目前にしてから話し出すのは、彼の癖らしかった―――椅子を立ち上がると、言った。
 「そうそう、書生さんは今日の昼にいらっしゃるからな」
 雲水は絶句した。









06.05.04