が女になってしまった。
 なってしまった、ではなく、そもそも書生としてやって来る以前から女だったと表記するが正しい。
 その事実は雲水を大いに震撼させたが、昏倒させるまでには至らなかった。
 発覚の瞬間、『真夏のドッキリ大成功!』などという民放調のふざけたテロップが流される事を、彼はほんの数秒間だけれども確かに期待した。
 数秒、は世界の感覚からすれば一瞬だ。彼の逡巡が解けるのに要した時間も、傍から見ればほんの一瞬だった。
 金剛雲水は決して天才と呼ばれる部類の人間ではない。
 けれども、並以上に聡い子である。現実は現実と割り切って認識してしまう方が逃避よりも余程利口なやり方である事を、幼少の頃から本能的に理解していた。
 『ずっと黙ってて、すいませんでした!』
 ―――気をつけの姿勢から勢い良く頭を振り下ろして、が叫んだ。
 つい先刻まで彼女を組み伏せにかかっていた阿含はと言えば、その傍らで暢気に胡座をかいている。
 兄の制裁を受けた後頭部には、もしかするとコブの一つもこさえているのかもしれない。平然としつつも痛みはあるようで、時折指で髪の根元を擦ったりしていた。
 『頭なんか下げなくていい。別にお前を叱りたいわけじゃない』
 宥めかそうとするが、は依然頑固に頭を垂れたまま固まっている。
 腕組みと共に、雲水は溜め息を吐いた。軽い頭痛がする。
 こんな事をさせたいわけではないのだ。早々に割り切ってしまってからは、の些細な(客観的に見れば大層な、だけれども)嘘など最早前提として関係がなかった。女だろうが男だろうが、書生として今まで通りに暮らしてさえくれれば良い。
 雲水は、取り立てて性別にこだわる事をしなかった。という人間を形作る要素の上で、それが別段重要な物だとは思えなかったのだ。
 『事情は、言いたくないなら訊かないし…』
 少々の秘密ぐらいは害になる物でもない。不在の両親には、帰って来たら説明すれば良いだろう。正直面倒な作業だが、腹の立つ事じゃない。
 『何も怒ってないから。
 出来るだけ穏やかな声音で言ったつもりだった。実際にそう聞こえたかは分からない。
 『……雲水さん』
 苦し気に、呻いたのはだ。いつもより幾分低めのその声は、屋外からの音響にすら掻き消されそうなほど覇気がない。体側で強く握りしめられた拳は、脅えているようにも見える。
 『ごめんなさい、オレ……っ! ほんとに、ろくでもない嘘ついて…どうお詫びしたらいいのか―――!』
 喉を震わせながら、緩慢な動作でもってが顔を上げた。きつく歪められた表情に彼なりの暗い気負いがあった。
 『オレに出来ることなんてほとんど何もないんですけど……き、気が済まなかったらいくらでも殴ってください。顔でも腹でもボコられるのだけは慣れてるっていうか、その、ある意味それも仕事っていうか、大丈夫ですからッ』
 物騒な自虐を吐きながらおろおろと目線が泳ぐ。
 見た目のフォルムは女の物に変質してしまったけれど、こういうネガティブで馬鹿正直な性質ばかりは今までの書生と何ら変わる所がない。そう考えると、俄な安堵が沸いて来る。雲水は微笑んでゆるく首を振った。
 『殴るわけないだろう。碌でなしならもっと酷いのがうちにいるしな』
 『う、雲水さん……!』
 誰の話だとでも言うように阿含が眉を顰めたが、構わず話を続行する。
 『はこれからも書生の仕事をやってくれればいい。親には手違いだったとか適当に話しておくから。あの人達ならきっとそれで納得すると思う』
 『っ……申し訳ないです!』
 『謝る事じゃない』深々と頭を下げる書生を見て、雲水が苦笑する。それが彼の感謝の精一杯だという事は理解していても、同年の者に恐縮されるのはやはり落ち着かない。
 は、しかし(ただでさえ容量が小さい上、融通の二文字を欠いたまま出来上がってしまっている脳構造なのだ)そういった曖昧な遠慮にまでは気が回らないようだった。
 『―――この御恩忘れません。オレ、頑張ります! これからは絶対、』
 まるでその先の言葉へ大義を潜ませているかのように、大きな濡れ色の瞳が興奮を乗せてキラキラ輝く。
 『ぜっっったい、いっぱい働いて、お二人に尽くしますから!!』
 ぶんっと頭が振り下げられた。頭頂部のポニーテールまでもが勢い良くお辞儀してみせる。ここまで張り切られてしまっては、今更落ち着けと言うのも何だか気が引けた。隣の阿含が小馬鹿にした調子で鼻を鳴らしても、書生は気にする素振りすら見せない。穏やかな彼にしては珍しく、頭の芯からのぼせ上がっているようだった。
 (……尽くしますから、か)
 脳裏での光景が収まらない内に、雲水は目を開ける。
 目下、ぴっちりとメイキングされたベッドが一つ。自分の物だ。普段より気合いの入った手入れぶりを見ると、書生は早速有言実行に努めたらしい。阿含の部屋もこんな具合に張り切って整えられているのだろうか。彼ならそうするだろうな、と思う。雲水の眼差しが僅かに緩くなった。
 「あの、すいませーん」
 ドアの向こうからノック音と間延びしたの声がする。
 「開けていいぞ」
 返事に応じて、間もなくノブが回された。
 廊下の光が差し込んで、闇一色の室内に細く白々とした筋が通る。
 「うわ、暗い。電気つけないとだめですよ!」
 室内を見渡すなり、が驚いた声を上げた。目は見開かれているのだろうか。暗い所為で表情が朧だ。夕食が終わって三時間と少しが経過し、現在時刻は午後十一時を回っている。月明かりしかない薄闇の中、自室に棒立ちでいる雲水は少々奇怪だったのかもしれない。
 ぱちんとスイッチを押す音がして、蛍光灯が輝く。開き戸の前に立つの顔が今度ははっきり見えた。光量の多さに、雲水は少し目を細めた。
 「…何か用か?」
 「あ。ええと、これ開けてもらいたいんですけど」
 おずおずと差し出されたのは缶詰だ。ちなみに言うとトマト缶である。いつだったかこれと同じ物を開けてくれと渡した際、書生が指から流血するという小事があった。あれがトラウマにでもなったのだろうか。彼は近頃このメーカー種の缶詰を何かにつけて敬遠しがちだ。
 (缶詰で怪我をする奴は初めて見たが、缶詰を怖がる奴も初めてだ)
 胸中だけで呟き、雲水は軽く頷き返した。
 「でも、何もこんな時間に料理する事ないだろ。明日は朝練ないぞ」
 「いやその…俺に尽くすってんならもっとマシな飯作れって阿含さんが」
 「あの馬鹿。また調子に乗ったか」
 尽くす、の意味を阿含は何か履き違えているようだ。
 雲水が難しい顔をすると、はへにゃりと眉を下げて笑った。
 いびられる事に慣れ過ぎた所為か、彼はこの理不尽な処遇にも何ら疑問を感じていないらしい。由々しき事態である。
 「それで、何を作るんだ?」
 「とりあえずスパゲッティとか、初心者でも上手く行くメジャーなとこから攻めてみます」
 スパゲッティ。低めの声で雲水が復唱する。
 「……夜作るにしては重くないか」
 「それ、オレも思いました…」
 うーと唸ってが肩を落とした。途方に暮れた目つきで、それでも諦めきれずにトマト缶を眺めている。平生の根性なしは何処へ行ったと訊きたくなるほどの往生際の悪さだ。笑えて来ると同時に、少しばかり哀れにも思えた。
 「今夜はもう諦めろ。明日の昼作ったらいい」
 「い、一緒に手伝ってもらえますか?」
 「……。お前一人じゃ駄目そうだったらそうする」
 「やった!」がぱんと手を叩く。駄目そうだったら、という前提条件を聞いていなかったのか。無邪気に笑ってガッツポーズまで作っている所を見ると、やはり彼のダメっぷりは性別云々にまるで関係がない部分で進行しているのかもしれない。
 「缶詰はキッチンに片しといて、そろそろ寝ろよ。遅いんだから」
 頭を叩いてやれば、はあいと素直な応答を寄越して小さな体を翻す。
 軽快なリズムで部屋を出た足音は、廊下の角に差し掛かる辺りで突如として悲鳴に変わった。次いで、阿含の怒鳴り声が響く。衝突でもしたのだろうか。前方不注意は事故のもとと散々言いつけているのに。
 (うちの書生はヘマばかりする)
 溜め息混じりの笑いを零して、雲水は瞑目した。
 何をやらせても上手く行かないの性分はいっそ奇妙だけれど、それを煩わしいと思わない自分自身も不可解でならない。不出来な子供を持つと、誰でもこんな気持ちになるのだろうか。
 安穏とした喧噪の内に、夜が更けて行った。














 06.09.02