女々しい女々しいと散々馬鹿にしていた相手が、正真正銘の女だった。 (大どんでん返しにも程があんだろ) 眉間の険しい皺を押さえて、深々と溜め息を落とした。そうして柄にもなく難しい顔をしている時の彼は、彼の兄とよく似ている。 クーラーの吐き出す風音が頭の核に響いた。外で蝉がじわじわ言うのでそれもうるさい。庭の植木にへばりついている奴らを数匹でも良い、見つけて叩き潰してやれたら、どんなにか胸がスッとするだろうと思う。 阿含は静かに首を擡げた。 恐怖、といよりも諦念の色濃いの面持ちがそこにあった。 真っ直ぐな毛筋も、地味な面構えも、掴んだだけでポキリと行きそうな喉も。上半分は普段の彼と何ら変わりない。だがそこに連なる体が問題だ。 阿含はきつと目を細めた。鎖骨の下に視線をずらせば、昨日まで確かに存在していなかったはずの丸みがふたつ窺える。それは服の上からでもはっきりと視認可能な形状をしていて―――というか、生のモノをついさっき風呂場で拝んだばかりなので、これ以上存在を疑う事も出来ない。 「……お前それ、一晩で生えたとか言うんじゃねえだろうな」 「…………」 答えはなく、代わりに見覚えのない布切れが一枚差し出される。 服飾に用いるようなやや厚地の、中途半端に細長い白布。何の変哲もない包帯だった。ほつれを防ぐ為か、両端に新しめの切り口がある。 「サラシってわけ?」 問いに、今度はゆっくりとした頷きが返って来た。 「ふざけんなって言いますか」 「当然だろ。金八じゃねえんだぞ」 現代日本で男の真似事。そんな馬鹿をやらかす理由がそもそも不明だ。 睨みつけると僅かに萎縮したらしく、は顎を引いた。彼の脅えている様子というのは、女の姿で見ても相変わらず焦れったい。苛立に、阿含は小さく舌を鳴らした。 「何か目的があってうちに来てんの」 「目的とかじゃなくて、その。色々事情があるんです」 「事情?」ドスの利いた反復。 小柄な体躯が電流を流されたようにびくりと震えた。 「事情って何だよ」 凄みをきかせて詰め寄りながら、阿含の声がますます低くなる。額と額が触れ合いそうな至近距離だ。困惑したように、少女の顔が俯く。 「オレからは……い、言えないことです」 「なにそれ」 拍子抜けの返答に思わず眉を顰めた。 は尚も哀し気に目を伏せたまま、ごめんなさいと言った。膝の上で握られた手が汗をかいている。しょげ返る、というよりは祈るような表情だ。 「黙秘権行使しちゃうわけ?」 「う……」 喉に詰まった声を出して、がおろおろと目を泳がせる。 (家主にまで隠すような事ってあんのか普通。どうせこいつの秘密なんざ大した事ないだろうから良いけど)退け気味になる腰を、逃がすまいと阿含が手で押さえた。これで、ようやく真正面から向き合う形になる。の唇がぶるぶると音を発さずに戦慄いた。動きから察するに、追い出さないで、とかそんな事を言っているのに違いない。 「バカ。別に出てけとか言わねーよ」 「えっ」 瞳が俄に見開かれた。その言葉が余程意外だったのだろう。 呆けた顔だと内心笑って、瞼にかかりそうな前髪を取り払ってやる。 の呼吸はいつもより少し駆け足のようだ。床についた腕が小刻みに震えているのを見て、それが緊張の所為だと分かった。 「オ、オレを。まだ家に置いてくれるんですか」 「お願いするならそうしてやっても」 わざと含みを持たせた言い方を選ぶ。そうして思いきり焦らした方が、事は格段に楽しい方向へ進んでくれるからだ。 口角をつり上げる阿含に、が怪訝そうな顔をした。 「……雲水さんには、黙っててくれますよね?」 「さあ。そっち次第じゃねえの」 実を言えば、追い出す気などさらさらないわけだが。 阿含は一つ、瞬きをした。細腰に添えていた掌をそっと退けて、肉の薄い両肩を掴む。が恐る恐るといった戸惑い顔で見上げて来た。事がどういう方向へ動き出したか、ようやっと理解し始めたらしい。だがもう遅い。構わず床へ押し倒して、抵抗される前に腕を捕らえた。うわっと不意をつかれた悲鳴が上がる。 「―――な、な、なにっ。なんですかこれ!?」 忙しく目を白黒させながら、。駭然とした表情に薄ら汗を滲ませている。身体を捩ろうとして、白シャツにくしゃっと皺が走った。 無駄な抵抗だ。嘲り、阿含は両の手に篭める力を強めた。細腕の軋む音と苦し気な呻きとが、歪に重なって聞こえた。 「頼み事すんなら、見合ったお返しってモンがあんだろ」 「お返しって……!」 「それとも何。雲水にバラされて、うちから出て行きたい?」 出来る限りの冷徹を装い、阿含は言った。腹の底では沸き上がって来る笑いを噛み締めながら。物言いた気なの瞳が、蟻の巣穴のように小さく窄む。出て行く、という一言は彼の心を酷く揺さぶる物らしかった。 「う、雲水さんには言わないで…」 要求とは違う、弱々しい懇願。阿含は意地悪く微笑んで、それに答える。絶対の主導権が自分の手の中にある事、を彼ははっきりと自覚していた。 「いいぜ。最後まで大人しくしてたらな」 マグロだったら殺すけど、と冗談めかした調子で付け加える。 軽口には取り合わないつもりなのか、はただじっと神経質に瞼を閉じるばかりで何も言わなかった。まるでこの世の終わりを看取る聖人のような顔だ。煮るなり焼くなり好きにしろ、とか、多分にそんな投げやりな覚悟を決めたのだろう。逆らわない姿勢を貫く事が彼なりの処世術なのかもしれない。 (ま、女だと思えば地味カワイイ顔だし、消極的だから萎えるわけじゃねえし? 何にしろ主人に従順なってのはイイコトなんじゃねえの)つい先刻まで少年であったはずの少女をまじまじと観察しながら、そんな事を考える。 正直半分くらいは勢いだったのだが、ここまで上手く事が運んだからには据え膳を食らわないわけにも行かない。 仰向けの首に指を這わすと、は微かに睫毛を震わせて反応した。あともう少し刺激をくれてやったら、それだけで泣き出してしまいそうだ。 ひ弱で臆病、加えて意気地なし。これが男なら躊躇せずに殴っている所だ。女で良かったと心底思う。 血の気の失せた頬をするりと撫で上げて、阿含は息だけで笑った。 (嫌がられながらすんのも、貴重な体験っつーか……) 悪くはない。そう思いかけた矢先だった。 ―――バタン。 後方で、扉の閉まる音がした。 はっとしてが目を開けたのと、阿含が振り返ったのとはほぼ同時だ。 二つの視線が交錯したその場所には、見慣れた道着と坊主頭。部活鞄を肩にかけ、右手をドアの取っ手に乗せたまま、放心しかけた雲水がぽつねんと立ち尽くしている。その表情は冷たく硬直して、瞬きの一つもない。 「あっ……う、雲水さ」 一番に声を上げたのはだ。急いで立ち上がろうとするも、押さえつける手に阻まれて肘を起こす事すら叶わない。磨かれたフローリングの上で、小さな踵だけが空しく滑る。彼はまだ事の重大さに気付いていないのだろう。 馬鹿、と阿含は小声で罵った。しかし咎めたからと言って、最早どうなるものでもなかった。取引は失敗だ。提示していた材料が水の泡になってしまった。 「…?」 雲水の喉が蚊の羽音ほどの声を絞り出した。やけに自信のない声色だった。立ったまま夢でも見ているような。 石仏、という表現がしっくり来る様相だ。生気のない、奇妙に焦点のぼけた眼をしている。無理もないと阿含は思った。兄にしてみれば、壮大な白昼夢か目の錯覚でもなければ有り得ない光景なのだ。 息苦しい沈黙が部屋を満たす。蝉の声だけがやたらとうるさかった。 を床に縫い止めたままじっと身構える阿含を、大きな双眸が見下ろした。言葉もなく、しかし微かに意志を残して佇んでいる。 「……なのか?」 ぼんやりと、躊躇いがちに。雲水が呟いた。 06.08.25 |