「やめてください!」
駅前の歓楽街。
泣き声混じりの悲鳴が、警笛のように甲高く響き渡った。
女が男にからまれている、しかも体格の良い複数人に。穏やかではない事態だが、警官の巡回もないこの近辺では特に珍しいわけでもない。夕刻頃になるとこんな厄介者がよく現れて、事をやらかすのだ。街道を通りがかった一般人は、事の成り行きを遠巻きに―――安全な距離を保ち、決してそれ以上踏み込む事をせぬまま傍観していた。救いを与えようとする者はただの一人もいなかった。
見飽きた光景だった。興味も沸かない。
阿含は人垣になど目もくれずに、そのまま人々の間をすり抜けて行こうとした。さっさと帰宅して、シャワーを浴びて、酒とつまみでもかっくらってやりたい気分だったのだ。
が、雲水がそれを止めた。道着の後ろ襟首を捕まえて、行かせなかった。
彼の目は野次馬の壁の奥をじっと見据えていた。後を歩いていた他の部員達も彼と焦点を同じくし、歩みを止めていた。ちくしょう。阿含は舌打ちした。
「雲水。せっかく部活出てやったんだから、さっさと帰らせろ」
「それとこれとは話が別だ。お前、あれを見過ごせるのか?」
「だってあの女カオが好みじゃねえもん」
「そういう問題じゃないだろ」
襟を掴んだ腕はそのままに、雲水が歩き出したのを感じて、阿含は顔を顰めた。このまま諍いの渦中に飛び込もうとでも言うつもりだろうか。彼はいつもおかしな所で頑固なのだ。止めてもきっと聞きやしないだろう。
面倒事になるだろうと諦めかけた、その時だった。
一人の女が、躓くようにして男達の前に進み出た。
いや、勢い余って飛び出した、という様相だったかもしれない。女は巨漢の不良にぶつかる数歩手前でどうにかバランスを取って、止まった。
なぜだか顔面蒼白で、目は呆然としていた。自分の行動が信じられないとでも言うようだった。彼女はきょろきょろと挙動不審に辺りを見回して、それから恨みがましく眉根を歪めると、苛ついたような早口で何か口走った。誰を罵倒しているのだろうか。
「なんだ、てめえ」
不良が女を睨みつけた。
ヒッと女が息を飲んで、半ば泣き顔になった。
野次馬がざわついている。雲水も、ナーガの他のメンバーもその異様な展開に目を見開いている。
馬鹿な女、と阿含は思った。見るからにひ弱い格好をしている。あんな頼りない体躯で、しかも三人の男相手に敵うとでも思っているのだろうか。
女は暫く竦んだままでいた。
取り返しのつかない現状に目眩でも起こしているらしかった。虚ろな、死にそうな顔をしていた。そうして、逃げられないと観念したのだろう。ぐっと唇を引き結び顔を上げた。決意の目で、口を開いた。
「そのっ…その人を、はなせ!」
出て来たのはあまりにも身の程知らずな言葉だった。
遠目にも彼女の膝が震えているのが見て取れた。迫力は皆無だ。
げらげら、男達の間から下卑た笑いが巻き起こった。女の蒼顔が真っ赤になる。手足が戦慄き、立っているのもやっとという様子だった。
「ほざいてんじゃねえよ、チビ女。それとも俺らに相手してほしいワケ?」
巨漢の手が、女の襟首に伸びた。雲水の足が動きかけた。
―――瞬間、劈くような轟音があった。
驚き、手が引っ込められるのと同時に女の体が仰け反って、仰向けに倒れた。受け身もとらずに、絶命したかと思うほどに見事な転倒だった。
思いもよらない事態に人ごみはがやつき、不良の男でさえ目を丸くした。
誰も、何も分からなかった。野次馬にも。雲水にも。
阿含には、しかし、転倒の直前に何か小さく光る物体が女の額に打ち込まれたのが見えていた。一瞬の出来事だった。瞬きが少し遅れたら、もしかすると捕らえられなかったかもしれない。あれは一体何だったのだろうか。
周囲の状況把握を待たず、女は再び起き上がった。
巨漢がぎょっとして顔を引き攣らせた。原因は突然起き上がられたのが予想外だったという事にもあったが、多分にもう一つの要素の方が大きかった。
「死ぬ気で……」
あの気弱そうだった形相が、まるで別人のように豹変していたのだ。
「死ぬ気で不良をたおーすっっ!!」
女は絶叫し―――それから微塵の気負いもなく、身に纏っていた白シャツを脱ぎ捨てた。ぼろ布でも扱うような動作だった。
おおっと歓声とも驚嘆ともつかない声があちこちで上がり、どよめきが広がった。神龍寺生は目を覆う者と刮目する者とで反応が別れていた。
そして、その行為自体にどんな意味があるのかは知らないが、女はなぜかあっという間に下着のみ、という大胆極まりない風采になっていた。
男には反応する間も与えられなかった。
ぎろり、と女の双眸が獣じみた輝きを放った。次にはもう、宙を舞っていた。
一切の無駄な動きがなかった。肉の薄い、少年のような裸の足が暈けた眼をした男の顎を直撃した。打撃自体に大した威力はないが、当たり所が悪い。よろめいた体に続けざま、とどめと言わんばかりの勢いある蹴りが打ち込まれた。
存外に柔軟性のある体をしているらしい。これには阿含も少しばかり目を見はった。
意識をなくした巨体がアスファルトに崩れ落ちると、今度は不良二人が背後から飛びかかって行った。卑怯だ!と野次が飛ぶ。
女は、けれども動じない。尖鋭な眼差しのまま振り返ると男の股間に痛烈な、戦意喪失ものの一撃を浴びせた。残る片方には鼻面へ、跳躍力を利用した頭突きを見舞う。倒れ伏せる寸前、男の発した呻き声がいやにはっきりと響いて、野次馬達は息を飲んだ。
女の鋭い目が元の気弱そうな雰囲気を取り戻したのは、最後の一人が立っていられなくなった、そのすぐ後だった。
薬物中毒者のように数秒呆けてから、彼女はやにわに自身を取り戻した。地面を見下ろし、転がっている衣服と男三人とへ交互に目を走らせ、彼女にしか分からない何か恐ろしい事を確認したらしい、またすぐに真っ青になった。
「そっその、あ、う……し…失礼しましたごめんなさいっ!」
先程の絶叫よりも更に馬鹿でかい声で―――ただ、その語尾だけは消え入りそうだった―――叫んで、女は衣服を両手にひっ掴むと風のように駆けて行った。人垣を掻き分け掻き分け、顔を隠して俯いたまま走り、不良にからまれていた女が何か言おうとするのに見向きもしなかった。
嵐の如く颯爽と現れ、それと同じ速さで瞬く間に消え失せた女。何処にでもいそうで誰も正体を知らない、歓楽街のヒーロー。話題性はたっぷりだ。数ヶ月は噂の種になるだろう。
「すごかったよなー。あの飛び蹴りと路上ストリップ!」
「けどなんで脱いだんだろうなぁ、あれ」
「鉄の錘が服に仕込んであって、脱ぐと強くなるとかそういう類いですかね」
「何処のバトル漫画の設定だよ。 ありえないだろ、あんな細いのに」
「ていうか、いっそ全部脱げば良かったのにな」
「けしからん事言うな馬鹿!」
翌日。喧嘩の強い下着少女の武勇伝は、爆発的な速度で蔓延していた。そこにおいては神龍寺ナーガも例外でなかった。帰宅途中、事件の顛末を目撃した全ての者の脳裏に、あの水色ストライプの下着姿が刷り込まれていた。
「あー……地味だけどちょっと可愛かったよな、あの子」
「分かる。妹にしたい感じ」
「また会えないかな」
「会えるといいっすねー…」
冗談半分に呟く部員達を山伏が叱りつけ、練習に連れ戻すのは少し後の話。
彼らと件の少女とが再会をなすのは、それよりもう少しだけ後の話だ。
06.04.29
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