今日も胸糞の悪くなるような快晴だ。蒼穹に白光りする太陽を叩き落としたい衝動に駆られる。実際そう出来たらどんなにか楽なのにと考えて、一休は頭を垂れた。暑さの所為か、いつも以上にネガティブだ。自分も、隣の人間も。

 「おなか空いた」
 「空きましたね」

 意味のない愚痴に、意味のない相槌。もう数十分前から反復されているこのやり取りに不思議と嫌気が差さないのは、こうでもしないとお互い死んでしまうかもしれないような気がしていたからだった。アメフトで鍛えた肉体も酷暑の前には歯が立たない。ベンチに残されて行った団扇を手に扇いでみるものの、風は素っ気なく部活着の上を滑って行くだけだった。まったくもってうんざりする。
 それは隣のも同じ事らしい。はああ、と尾を引くような溜め息を吐いて、彼女は部活仲間たちの消えて行ったフェンスの向こうを見遣った。緑の塗装の剥げかけた針金の、歪な菱形に空いた隙間を、さも忌々しそうな目つきで睨みつけた。

 「あの人らなんであんなに遅いの。ちゃんと足ついてるわけ」
 「留守番って一番楽に見えて最低のポジションですよね。暑いし」
 「買い出し組は今頃コンビニでひんやりか……くそくらえ」

 眉間に寄った怒り皺を伸ばすかの如く指で押さえ、また溜め息を吐く。自分もこれぐらい遠慮なく感情表現が出来たらどんなにか楽かもしれない。一休はの横顔に感心と呆れの混在した眼差しを向けた。

 「なんか近頃特に言葉遣い悪くないすか。もっと女子高生としての恥じらいを」
 「女としての余生を捨てて、アメフトに賭けてみるってのも良いと思わないかい」

 服の襟元を掴んでばたばたと風を扇ぎ入れるの疲弊した額からは、いや額と言わず全身からは、一休と同じく止めどない汗の粒が零れていた。普段は暑さには強いんだと豪放に笑っている彼女も、こうなると我慢が効かないらしい。襟の隙間から覗いた肌の精白に一休は驚いたが、それをごまかすように言葉を繋げた。

 「……思いません。それより」
 「なに」
 「その薄着を正してください。今だから言いますけど部員全員気が気じゃないんすから」
 「はあ、なんで?別に大丈夫だよポロリの安売りはないから」

 そういう意味じゃあない。一休は顔を顰め、この際だから懇々と解いてやろうかと考えたが、また説教じみた言葉しか浮かばなかったのでやめた。彼女は男女間の情の揺動だとかいった物に疎過ぎる。

 「…まあ、さんみたいな人なら心配ないと思いますけど」
 「ワーオ。遠回しに傷を抉るタイプだな、細川くん」
 「焦らすのは割と好きな方っすよ」
 「いや聞いてないけど」
 「そうですか」
 「そうだよ」

 言いながら、が片手でベンチの端のペットボトルに手を伸ばした。目当ての物はすぐに探し当てたが、生憎空だったようだ。用済みのボトルは片手で握り潰され―――とまではさすがに行かなくとも、無惨にへこまされて、再び青いベンチの隅に投げ出された。
 どう見ても理不尽な八つ当たりだが、無理もなかった。何せ一休と彼女以外の部員達は「休憩時間のための買い出しに行くから」と言い近所のコンビニへ出かけたまま、必ず帰って来ると約束したくせに、一向に帰って来ようとしないのだ。

 「そもそもジャンケンなんかで居残り決めるのが間違いだ」

 今となってはどうしようもない結果について、は本日四度目になる小言を垂れた。しかしとうに敗者と決められた人間がそんな事を言っても、決まり事は決まり事、全ての承認の下に成り立った約束に最早待ったはないのだ。

 「諦めてください、ルールなんすから」

 冷淡に返して、一休は片手に握った中身のないペットボトルを放った。彼もとうに飲み水のアテはなくなっていた。

 「ねえ校舎の中行こうよ、冷水機あるし」
 「だめっすよ。離れてる間に盗み入ったらどうすんですか」
 「ナーガのやつらの荷物なんか恐くて誰も取らないよ」
 「鬼がいますからね……。でも行っちゃだめっすよ」
 「なーんだよケチ! ホクロ! ええと…バック走!」

 あやふやな悪たれ口は二十単語ほどに及んだが、時間が経つとすぐに終わってしまった。彼女自身、それが実を結ばない行為だという事は分かりきっていたのだ。
 駄々を散々こね終わると、も少しは静かになる。不平を言う代わりに、次は足を揺らして無言の抗議を始める。ベンチが揺れるからやめてくださいと一休は言いかけたが、これもまた彼女の怒りを買いそうだと察して何も言わずにおく。

 「…あー。細川なんかと下らない話してると青春ムダに生きてる気がする」やがて痺れを切らしたのか、が無礼を言い始めた。
 「その言葉そっくりそのままお返ししますよさん」顔も見ないで一休が応じた。
 「く、黒いな…!細川が予想外に黒いよーみんなー!!」
 「呼んだって誰もいませんよ」
 「そんな分かってる事言うな。悲しくなるから」

 それとすぐに分かる猿芝居の泣き真似が聞こえて、一休は初めて隣を向き直った。その反応が予想外だったのか、は目をぱちりと見開いたまま硬直していた。本気で騙されたの?とでも言いたげな表情だったが、まさかそんなはずはない。一休は軽く嘆息し、口を開いた。

 「分かってるなら、その大股開き。どうにかしてくださいよ」
 「今日の細川いつにもまして意味分かんないんだけど」
 「だから……分からないんすかこの状況」
 「部員の皆に置いてけぼり」
 「そうじゃなくて、今俺たちベンチに二人だけでしょ」
 「うん」
 「グラウンドにも人いない」
 「うん」
 「暫く皆帰って来ないですよね」
 「なるほど。つまり、あれだ。…高校生らしいリビドー?」
 「聡明なさんで何よりっす」
 「えーやだなその褒め方。もしかして細川、女人なら誰でも良い派?」
 「さあ、どうですかね」
 「うわああ計り知れねえ……高校生ってムズカシーな!」

 けらけら笑って、が腹を抱える。
 そういう彼女だって紛う事なき高校生だ。しかもこの年でまだ男の一人もいない。
 純で鈍臭いのはそこに因るのかもしれないと一休は思う。意思伝達には手こずる相手だが、嫌いじゃあない。しょっちゅう間の抜けた顔をしているが、愛嬌を感じなくもない。頭の悪い飼い犬に沸く愛しさと似ている。他の部員が彼女に感じているのも、半分はそんな和やかな感情で出来ているのだろう。馬鹿な子ほど可愛く思えるのだ。

 「……案外今が狙い目かもしれないっすね。ぼーっとしてるし」
 「ん、何か言った?」
 「大股開き直してくださいって言ったんです」
 「…いちいち小うるさいね細川は」

 は盛大に眉を歪めつつも大人しく一休に従い、その膝を寄せた。一見こぢんまりと整ったようにも見えるが、爪先は窮屈そうに震えている。野良犬、という失礼極まりない表現が一休の脳裏を過って行った。躾がまるでなっていないのがそっくりだった。

 「ああ。あと口半開きにしとくのもやめてください」
 「そこまでケチつけんの!? なんで!」
 「色々突っ込んでみたくなるじゃないすか」
 「い、いろいろ…?」
 「そう。色々っす」

 一休がにっこり笑うと、は狐につままれたような面持ちで息を飲み込んだ。その方面に弱い彼女もさすがに感づいたのだろうか。
 その時、丁度良い頃合いで、会話の空気を遮るざわめきが耳に入った。
 買い出しの部員が帰って来たのだ。



 「皆帰ったみたいっすねー。迎え行きましょうか、さん」
 「え……あ、ああ」

 戸惑い混じりに返事をして、は立ち上がった。目には腑に落ちないと言いたげな光がある。物わかりの悪い彼女の事だ、肝心な所で理解出来ていないに違いない。
それで良いと一休は思った。こうして何も知らないままでいてくれた方が、今はずっと都合が良いのだ。
 遠くに見える買い物袋を下げた人影に手を振ると、振り返された。
 こちらも向こうも歩み寄るから、距離はすぐに縮まって行く。


 (次にこういう機会があったら、少しぐらい強引に物にしちゃっても罰は当たんないっすよね、神様)


 振り向くと疑るようなの視線があったので、笑って返した。
 もう三日もしたら、きっと彼女は忘れているだろう。













06.07.29