※暴力・流血表現含みますよ、ご注意!








ぶち当たった。床で体がバウンドした。
人間の体って叩き付けられれば跳ねるように出来てるのか。
頭の中で真っ赤な光が爆発して、それが瞼の外側まで垂れて来た。感触は、どろり、としている。右の目を開けようとすると紅色の不透明なフィルタが邪魔して何も見えない。
一体、何が起こっているんだろう。
「もう終わっちゃったワケ。早いねー、随分」
息が苦しい。手足は鉛が付けられたみたいに重かった。
幼い頃に遭った交通事故の感覚を思い出す。あの時も脇見をしていたとか、ブレーキせずに飛び出したとか、そんなヘマをやらかした所為で痛い目見たんだっけ。今度はまた何しちゃったんだ。左右確認忘れてトラックにでも轢かれたのか。頬に触れる地面が冷たい。
「目ェ覚ませよ。抵抗してくれた方が燃えるじゃん」
頭痛はするし耳鳴りは聞こえるし、今日は散々だ。
部活をさぼって、雲水の所へ遊びに行った罰だろうか。親に連絡すら入れなかった天罰だろうか。そもそも、雲水の家に辿り着けたのかも怪しい。記憶の回線が混雑して、思考が上手く行かない。
そうだ、確かインターホンを押したのだ。そうしたら阿含が出て来て、雲水は今風呂だから、とか何とか言った。普段より妙に優しかったように思う。空調の効いた部屋へ通されて、その上お茶まで勧めてくれるから、礼を言って、椅子に座って膝の上で手を揃えて、それで―――。
あ、そうか。
それから、こうなったのか。
「ほら。まだダウンなんかじゃないだろ」
さっきからぼんやりとしか聞こえていなかった物が、急に明瞭に響くようになる。
ワーン、ツー、………誰かが数えている。
機嫌の悪そうな、それでいて愉しみを堪え込んだような歪な声。
今部屋にいるのは私を除いて一人だけだ。
阿含。名前を声に出そうとして、出来なかった。
スリー、の声と同時に背中を上から踏みつけられる。
「―――っああああ!」
「そうそう、もっと痛がれよ。楽しくなきゃ、余興の意味ないだろ」
この悲惨な状況を目下に何処から紡ぎ出しているのか、聞くだけなら甘ったるい声だ。
肩甲骨の段差になった所を、裸の爪先がぐいぐい押してくる。肺が、心臓も、このままじゃ潰されてしまう。
堪えかねて悲鳴を上げれば、うっとりした声でもっと、と催促された。
冗談じゃない。死にたくない。
必死に腕でもがいたら今度はその腕を踏まれる。関節に踵が置かれて、骨の砕けるような激痛が走る。
「楽しい」
場にそぐわない言葉が頭上から振って来る。
頭……、そういえば切れているようだ。茶を持って来てくれたはずの阿含が何故か手ぶらで、不思議に思っている内、突然私の襟首を鷲掴みにすると壁に叩き付けたのだ。きっとその時に裂けたのだと思う。
目の中にまで流れ込んだ血が、頬を伝って床に垂れている。
顔の側面にぬるりとした感触があった。
まだ、流れ続けているようだ。辛うじて無事な左目が、無惨に転がる椅子を捕らえた。あの時まで、何も知らず座っていた椅子を。
「楽しい、?」
訊かれて、それが問いかけだったと初めて気付く。
勿論楽しいわけがない。
応じず押し黙っていると、関節に感じていた足裏の感触が俄に離れる。
次は何をするつもりか―――身構えるより先に阿含が正面へしゃがんで、ひょいと私の顔を覗き込んだ。
血まみれの視界に、目映い金色の髪がちらつく。
息がかかるくらいの近さだ。
「ここ、痛いだろ。かわいそうに」
傷口の上を、硬い五指が緩慢に行き来する。撫でているつもりだろうか。
得体の知れない恐ろしさに歯の根が噛み合ないでカチカチ鳴った。
阿含はまた白々しくも哀れむように、かわいそうに、と繰り返した。
ふざけるな、お前がやったんだ。反抗を口にしようとしても、獣じみた呻き声しか出せない。畜生、畜生、ちくしょう。
体の諸器官が自分の物じゃないみたいに気怠いのだ。
う、う、と喉で唸った。
どうにか体を動かして、立たなきゃならない。死にたくないと思う。でも、やっぱり無理だった。四肢は一向に役立たずのまま、力を受け付けないでだらんとしている。
「……弱っちいくせに、頑張っちゃって。ホント可愛いねお前」
まるで捨てられた野良犬の相手でもするみたいに、柔らかい声色だった。
体中例えられない悪寒で一杯になる。全部、全部、よく出来た嘘だ。
「そ…んな、こと……思ってないくせに!」
「あ。まだ喋れたんじゃねえか」
元気あるなら、早く言えよ。――弾んだ調子で、阿含。
興奮に輝いた目が、唇ごと薄く横に引かれる。
彼が悪巧みをしている時の表情だ。思わずゴクリと喉が鳴った。
「本気だぜ、信じろよ。結構マジに言ってやってんだから」
襟ぐりを掴まれて、無理矢理引き起こされる。
こっちはもう虫の息だって言うのに、これ以上どんな酷い責め苦が待っているのだろう。じんわりと熱を帯び始める目頭を理性が叱咤した。
負けちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ。
眉間に力を込めて睨み返す私を、阿含は満足げに眺めている。
よくできたね、えらいね。そんなふうに。
「……雲水、は…?」
訊くと、僅かに喜色が消えた。
機嫌を損ねたのだろうか。仮にそうだとして、今更恐い事もないけれど。
「委員会。帰って来ねえよ、暫くはな」
噛み潰すような声。冷徹で、感情って物がない。
真っ赤に汚れた襟首を掴む手に力が籠った。
引き寄せられて、額と額がぶつかった。阿含の顔にも赤い筋が流れる。高い鼻を、すうっと一本の線が伝って落ちた。病的な美しさだ。こんな所で、こんな事を考えるのは馬鹿げているけど。
。なあ、いじめてやろうか」
鎖骨が嫌な音を立てて軋んだ。
その気はないのかもしれないけど、放っておくと折られそうだ。
顔を顰めて抗議しても阿含はまるで気にしない。
舌先で口角を舐め上げられる。
生暖かさと、ひやりとした感触が入れ替わりにやって来る。
恐怖よりも嫌悪が先に来て、鳥肌が立った。震えながら目を瞑る。
もう、正気じゃない。
「お前の事泣かしてグッチャグチャにしてやったら、雲水どんな顔するだろうな」
彼の指は血まみれだ。頭部の傷を撫でた時に付いたのだろう、爪にまで染み込んでいる。元は自分の中を巡っていたはずの液体なのに、何故だか見覚えがない。別人の物みたいだ。どうしてだろう、と思う間にその手が服の中へ差し込まれた。
「何なら、に選ばしてやるよ。痛いのときもちいのと、どっちが良い?」
そんなの知らない。訊いてくれなくて、良い。
涙がぼろぼろ沸いて来て、溢れて、止まらなくなる。
阿含の表情はやっぱり嬉しそうだった。
もっと痛めつけてやろうと考えているのか、それとも、更に残酷な別のやり方を思いついたのか。これだけ人を傷つけて、嬲って、泣かせて、それが幸せだなんてきっとアタマがおかしいに違いない。
「…俺のおすすめは、な」
とろり、と鉄の匂いが口内へ流れ込む。愉悦に滲んだ声が笑う。
その先は、聞きたくない。












06.08.17