今日も、酒臭い。 あんた何歳でしたっけ、と溜め息混じりに呟いては阿含を睨みつけた。顔を真っ赤に紅潮させて酔い狂った男にそんな非難が通じないのは百も承知だ。 とりあえず蚊の侵攻を防ごうと、半端に開け放されたままの玄関を閉じる。 向き直るとやはり上機嫌な顔で阿含がそこにいた。この男、門限破りも法律違反もまるで大事とは考えてないようだ。は今度こそはっきりと嘆息して、出来の悪い生徒を叱りつける生活指導担当さながらに腕を組んだ。 「ろくでもない。本っ当、世話の焼ける人ですね」 近所迷惑を思うと、声を張り上げて叱り飛ばす事は出来ない。草木も眠る丑三つ時だ。 こんな時間に帰宅する腑抜けた精神自体、そもそも許されてはならない。 「ハァ? なーにお前、俺の世話してやってる気でいんの、」 からかうような口調。酔っ払いの割に、呂律ははっきりしている。 酔いに強いのか、酔えば酔うほど饒舌になるのか。どちらでも良かった。どちらでも、同じ家に暮らす者達にしてみればただの厄介には変わりない。 「そうですよ」 階上にいる彼の兄を起こさないよう、声を落として囁く。 「私と雲水さんがいなきゃどうにもならないのに、生意気言わないでください」 「生意気なのはてめーだろ。細っこい体しやがって、棒みてえ」 減らず口を叩きながら、の背中に腕を回す。 思いきり抱き締められると、彼の服が蓄え込んだ色々な夜の匂いがした。 その大半を占める濃厚な甘さに気付くと、無意識に眉を顰める。女と随分愉快に遊んだようだ。こういう下衆な遊びしか出来ないなら、外出も大概にすれば良い。 真面目な雲水が可哀想だ。 「ふざけないでくれませんか」 「嫌だね」 突き放そうとすれば尚更意固地になって、腕の力は緩まない。 冷静に見えて、やはりいつも以上に酔っているのだ。 とても苦しい。 抱え込まれながら、は呻く。ついでに辟易する。一度は追い払ったはずの睡魔が、再び頭を擡げ始めた。なんてタイミングだ。 「どいてください。早くベッドに行きたい」 答えはない。 得意の悪口が一つ二つ返って来るかと思いきや、じっと黙っている。 「阿含さん?」 訝しがって目を細めた。 言葉もなく膠着して、ほとんど人形のようになっている男の名前を呼ぶ。 殊更進行しそうになる眠気を必死で食い止めながら、は阿含の背中を撫でた。あまり沈黙が長いのでアル中で事切れたかと一瞬不吉な予感が過ったが、この生命力の強い男にそんな呆気ない話が有り得るはずはないとすぐに悟った。大方、彼も眠いだけなのだ。 「眠いなら、部屋まで運びましょうか」 「……ん」 寝言だかよく分からない返事があったので、応答と取る事にした。 腰を抱き込んでいた手を解いて、今度はそれを両肩にかける。 到底、合理的な方法とはかけ離れている。雲水の為だと思わなければ、途中で諦めていただろう重さだ。スポーツマンでもない女の体には堪えた。お陰で捨て鉢に近い気分になって、途中何度か阿含の神経を逆撫でするような言葉を思いついた。口に出さなかったのは、偏に保身を重んじたからだ。 「着きましたよ、阿含さん」 彼の部屋へ辿り着くまでに、十数分が経過していた。 酷い睡眠妨害だ。玄関の前で話し込んだ時間を加えると、金を取ってもおかしくない域に達している。しかし勿論彼から金品徴収など出来るはずもないから、これも徒労に終わるのだ。下がって来る瞼を擦り、ふうわあと大口を開けて欠伸をした。 「あの、阿含さ…」 「…………」 振り向くと、背中の男は相変わらず死んだように眠っている。 これの為に今更溜め息を吐くのも惜しい。は言葉のない荷物を担ぎ直すと、自棄になってドアノブを回した。 見る間でもなく理解していた事だったが、室内は、あまり整頓された状態ではない。それが尚更悲観的な気持ちを助長させる。暗闇の中で、足下の障害物を用心深く避けながら、は部屋の隅のベッドを目指した。幸運にもその付近は無傷に近い状態で、横たわるのに差し障りはない。 ぼろぼろに疲れきった体も、これで眠れる、と思えば自然と力が沸いて来た。 「良いですか、下ろしますよ」 返答が一切ない所為で、承認を求める声も独り言のようで寂しい。 細心の注意を払いながら阿含の体をシーツに下ろす。腕一本でも動かすのに一苦労だ。 腹を冷やさないように、足下に広げられていた薄い布団をかける。この万能人間が風邪をひくというのは想像に難かったが、それでも一応は人の子だ。用心はしておくに限るだろう。 最後に、彼の目を覆うサングラスを取る。擦った傷の一つもないレンズに彼の愛着を感じる。数秒眺めて、サイドテーブルに置いた。あまり長い事持っていると、持ち主が急に起き上がって怒り出すような気がしたのだ。 「それじゃあ。おやすみなさい」 聞こえていないだろう挨拶を小声で済ませて、ベッドを離れる。 寝顔は、暗闇の所為で見えない。穏やかな息の音だけが聞こえる。は小さく微笑んで、半ば開きかけたドアに手をかけた。 「…待てこら」 不意に背後から声がかかった。本当に不意だ。 驚いて振り向く。阿含は上半身だけ起こして、を見ていた。 「お、起きてたんですか?」 「ああ。お前運ぶの下手だし、足痛ぇし」 一体いつからだろう。階段を上る時点で意識があったのか、それともずっと起きていたのか。何にしろ人が悪い。起きられるなら、歩けば良かったのに。 眉を顰めて、悪かったですねと呟く。笑顔はとうに消し飛んでいた。 「じゃ、もう夜遅くに帰って来ないでください。もっと早く帰って来て」 また、子供を叱りつける大人のように、腕を組む。 「お前それ、俺の事心配で言ってるんじゃねえだろ」 阿含の切り返しは、けれどもそれ以上に鋭かった。 はぎくりとして、答える代わりに目を伏せた。 誤摩化しだ。彼がこういう場面で言う事はいつだって正しい。 (だってあんたは、雲水さんを悲しませる事ばっかりするじゃないですか) 目を逸らさずに、阿含が見ている。 (私の一番は、雲水さんが泣かないことなんですよ) 建前が見抜かれている確信はなかった。まだ安全だと思っていた。今はその曖昧な余裕すら崩されたのだ。胸が、激しく波打っている。 先程まで玄関で彼女を抱き込んでいた酔っ払いはもう何処にもいない。 ベッドの上に、冷たく見据える二つの目がある。 「お前、俺のこと好き?」 それが何だか分からない。 背筋をぞっとさせられる何かだという事だけ分かる。 見られている。刺すように睨まれている。 こちらからは向こうの表情が分からないが、向こうにはきっと見えている。彼は目が良い。頭も良い。嘘は既に通らない。 「なんで、好きかなんて」 阿含が懇願しているのではないらしい事が、せめて残された逃げ道だった。 本心で好きだと言ってほしくてこんな質問をしているのだったら、は自分の首を絞めなきゃあならない。でも、彼は特別に愛されなくても、他に掃いて捨てるほど宛はあるのだ。だから憎まれ口を叩いても心は痛まない。 「……そもそも、阿含さんが私のこと嫌いなんじゃないですか」 「割と好きだぜ。今寝てやっても良いくらい」 「嫌いな人とだって…寝るでしょう」 「へえ。知ってんだ」 軽い調子で阿含が肩を竦める。 (分かってたくせに)は爪が食い込むほどの力で拳を握りしめた。 「で、好きなの」 「その話はもう良いですよ。寝ましょう」 「じゃあお前、俺の隣来て寝ろよ」 やっぱり酔っているんだろうか。阿含がぽんぽんと自分の横の空いたスペースを叩く。やはり表情は窺えない。断れば、酷い目に遭うだろうか。 「」 二度呼ばれた。急かされていると知って、仕方なくベッドの傍まで行く。寝ませんからねと予め釘を刺し、背中を向けて脇に座った。 無言が続く。 時計の動く音以外には何もない。 主の長い不在で誰の所有かも分からなくなった部屋だ。 ぎしりと、微かにベッドが軋んだ。 阿含が静かに腕を伸ばして、の首に絡めた。引き寄せはしない。逆にしなだれかかって、深い溜め息を吐く。今度は、苦しくない程度に縛められた。 「酔ってるんですね、阿含さん」 「酔ってねえよ」 肩に強く額を擦り付けられる。甘えたがりの猫のようだ。 生きた心地がしない薄闇の中で、はまたあの時と同じに、彼の背中を撫でてやるべきかと考えた。実行出来ない思いつきだった。撫でてやる為には彼と向かい合わなければならないのだ。無理に決まっている。 「ちょっとはお酒、控えてくださいね……飲まないのが一番ですけど」 「それも雲子の為に言ってんの?」 「阿含さんの体の為です」 「嘘言えバカ」 「嘘じゃありません」 縛める力が少しずつ強くなる。 暴君は柄にもなく、余程弱っていると見える。 「……好き、です」 「!」 小さく呟いた。 首に回された腕が一瞬、にも感知出来るほど強張った。 「って、言ってほしいんですか」 続きを聞いた途端に硬直が解ける。 分かりやすいと思う。今日ほど彼を分かりやすい人間だと感じた事はない。 だからと言って、扱いが容易くなるわけでもないのだが。 「阿含さん」 「………」 問いかけに答えはない。 ああ、弱っている。何処からか憐憫の情が沸く。この際だから、好きです、と飽きるまで言ってやろうかと思う。でも同情なんて物は、阿含にすれば屈辱以外の何でもない。 初めから好きかなんて訊かなければ良かったのだ。他に幾らでも楽しめる相手がいるのに、どうして突然こんなわけの分からない気まぐれを起こすのか。施しをすればするほど彼が不幸になるものだから、には最早どうしようもない。 手を尽くしきった気がする。いや、まだか。 「どうせだから、一緒に寝ましょうか」 ふと、そんな言葉が零れた。 今してやれる事なら何だって良い気がした。 阿含は頷きもせずに、黙ってを抱き込んだまま仰向けに倒れた。存外にベッドの立てた軋みが大きかったので、隣室の雲水が目覚めないかとは少し心配する。声に出せば、しかし彼が不機嫌になるだろうから言わない。 言わないであげる、というのは驕りだろうか。は眉根に皺を寄せる。どちらでもいいかもしれない。煮詰めたって苦しいばっかりだ。 今は寝る方が良い。どちらの為にも。 「寝てる間に逃げやがったら殺してやる」 「逃げませんよ、そんな…」 答えている間に置き忘れていた微睡みがやって来た。 はあ、と欠伸をして膝を丸める。目を閉じる間際に阿含がゆっくりと髪を梳いて何か言ったが、その意味を確認する前に眠ってしまった。 朝まで覚えていられたら良い、と思う。 06.08.12 |