※ナーガも泥門もみんなにゃんこ化してますので、ご注意! 「あ」 思わず、声が出る。 碌でもない相手に出くわしてしまった。 早朝の散歩コースでこんな厄介な障害物に出くわそうとは、まさか飼い主だって予想はしていまい。 最早無駄だと分かっていて、は息を殺す。 視線の先に異様な存在感を持って佇んでいるのは、金剛の双子の片割れ、阿含だ。今日はお目付役兼兄の雲水と一緒にいない。一人で家を抜け出して来たのだろう。 阿含は恐い。この辺りの縄張りを仕切る、というよりは好き勝手荒らすチンピラみたいな不良猫だ。少なく見積もってもより二回りは大きい体格。黒白の斑が浮いた荒々しい毛並みに、緑色の目。一月前に見た前足の傷は癒えたらしい。彼はよく、喧嘩をする。この辺りの覇権を争ったり、メスを奪りあったり、理由は色々だ。 長い爪も隠さず、鋭い目つきでこちらを睨んでいる所を見ると、あれは明らかな威嚇の姿勢だ。つまり、とおせんぼのつもりらしい。何の気まぐれか。 困ったな、とは思う。 二匹は今、民家を囲むブロック塀の上にいる。 飛び降りて素知らぬ顔でアスファルトを歩くという手もあるが、何かしら言いがかりをつけられて追い回されるのが結末として妥当だろう。先週それを試みて散々な目にあったお隣のオス猫を知っている。 運が良いのか悪いのかはメスだ。暴君と言えど阿含は女好きだし、さすがに半殺しはないだろう―――が、無視なんてしようものなら病院送りには違いない。 ここは腹を決めて話し合いで解決するしかなさそうだ。 立ち止まったまま、は尻尾を揺らした。こうしてただ立っているのも焦れて来る。 まともな会話の通じる猫なら良いが、それはあまり望めない。吐きたい溜め息を抑えて、なるべく平静を装いながら、は阿含に近寄った。内心パンチの一つも食らわせたい。実行すれば自殺行為なのは知っている。出来るぐらいに強いなら、の話だ。ありえるはずもない。 「お、おはよう…ございます。阿含さんも、散歩です、か?」 声が震えた。でも大分ふつうに、話しかけられたと思う。 阿含が僅かに視点を揺らした。凶悪そうな口角がつり上がる。機嫌は、良い方なのだろうか。悪くても困る、良過ぎても困る。非常に微妙な所だ。生憎、ご機嫌取りは上手い方ではない。 「散歩っつーか、良いカモ通りかかんの待ってた」 正直な事である。彼の言う「良いカモ」として自分に白羽の矢が立てられているのが分かると、は血の気が引いた。自分は神に咎められるような悪事でも働いただろうか。 「それよかお前、すぐ俺だって分かったな。雲水と間違えねーんだ?」 (そりゃ、離れてても血のにおいがするから)とは言えない。 曖昧にはあ、とか相槌を打つ。どうか気分を害さないでほしい。 震えながら、ついと目を逸らした。阿含が、緩やかに向かって来るのが空気で知れた。彼の毛並みに染み付いた血腥さは、今日のような晴天の日に限らず不思議とよく分かる。 もっともっとずば抜けて鼻が良かったら、と思う。そうしたらこの理不尽な恐怖との遭遇も回避出来たのに。 けれど今となっては、そんな後悔も空しい。 薄桃色の、震えているの鼻先に、阿含の鼻先が触れた。普段なら礼儀正しいごあいさつ、といった所だが、これは多少嫌がらせに近い。爆発寸前のダイナマイトに密着されているような気分だ。 「ええと、阿含さんは、その…」 「ん」 いつも発情してますよね。―――出かかった言葉を、喉元で嚥下した。虫の居所が悪かったら、この言葉一つで殺されかねない。 「…何でもないです」 「なに?はっきりしろよ」 さして気にしたふうでもなく、寧ろ面白がって、阿含が頭を擦り寄せてくる。彼を前にしてはっきり自己主張が出来る猫なんて、はついぞお目にかかった事がない。余程の勇者か、命知らずだろう。この世に存在してるなら紹介してほしいくらいだ。 (けど、なんか、おかしい) 今日の阿含からはいつもと違う種類の匂いがする。何と言うか、甘ったるい。嗅げば一発でそれと分かる、特殊な匂いだ。もしかすると単なる素振りじゃあなくて、本当に発情しているのかもしれない。 「阿含さん、今日フェロモン出してませんか」 思い切って聞いてみる。阿含は薄らとその浅緑の目を細めた。 暫くあってから、なんで、と聞き返される。地雷だったのだろうか。 「なんて言うか、横にいるとくらくらするんですけど」 「へえ。分かるんだ?」 何やら嬉しそうだ。いつの間にかとぴったり体をくっつけて、喉を鳴らしている。笑いながら突然牙を剥くようなオスなので、安心は出来ない。今の所、敵意はないように見えるけれども。 「昨日、隣町行って来た」 耳にそうっと口を近づけて、秘密事でも語るみたいに阿含が囁いた。 驚いたのはだ。 「と、隣町って、今シーズン真っ盛りじゃないですかあそこは!」 「だから行くんだろ」 しれっと返される。しかも体は更に密着して、だ。 彼はむこうのメス猫の発情の気に当てられたに違いない。そうでなくたっていつでもナンパな感じはするけれど、今日は一層見境なさそうな雰囲気だ。夜でもないのに、瞳が爛々、輝いている。 「阿含さんが発情した子と、その……あ、会って帰って来ると、うちの町のみんなも連鎖で発情しちゃうんですよ!?」 「なにお前。俺の夜遊びに文句つけんの。何様?」 ぎらり、思いきり睨まれるともつい萎縮する。 「いや、そういうわけじゃ……」 「じゃあ黙って付き合えよ。暇なんだろ」 その言葉がどういう意図を含んでいるのか、分からないほど、子供でもなかった。慌てて来た道を引き返そうとした。数歩、歩く。 けれど悲しい事に、食われる!と本能が確信した瞬間には、大抵がもう手遅れだ。この場合もそうだった。阿含は俊敏な動きで飛び上がって、の背後を取ると、のっしと体を乗せて固定し、首の柔らかい所を酷く噛んだ。組織の千切れる音がリアルに響いた。 「うわああああ痛いいたいやめてはなしてーっ!!」 「無理。俺がもうその気になっちまったからな、今更やめて待ってはなしだぜ」 死ぬ気になって四つ足でもがくも、百戦錬磨の伊達猫の下では意味がない。耳の後ろを舌が滑ると、つい腰が浮いてしまう。メス猫というのは厄介だ。 まずい。非常にまずい予感がする。阿含は初めから本気だったのかもしれない。 「い、いやだ、痛いのはいやだああ…!」 「猫なら我慢しろ」 「やだああこんなのって汚いいいぃ…!」 相手はもう臨戦態勢に入っている。何を言っても変わりそうにない劣勢にはせめて大泣きで抗いながら、時折呪詛のように猫なんか猫なんかと呟いた。 「も…、ど、どう、して、私なんです、か……!」 答えがないのを知っていてしゃくり上げると、意外にも阿含は手を止めた。何か考えているらしい間があって、それから小さく諦めたような嘆息が聞こえた。 「お前の斜向い、オス一匹住んでるだろ」と彼は言った。 斜向い。オス。一人っ子。 すぐさま頭にぼんやりとしたイメージが浮かんで来て、明瞭な形になった。家の名前は細川。キジトラの毛並みで、家は近いのにあまり関わった記憶がない。近づくと即座に後ろ向きで飛び退ってしまうから話す機会もないのだ。 「……き、キジトラの、ですか?」 「そ、一休っつーの。あいつシーズン来るといっつもお前の家見てたけど、知ってた?」 は首を横に振る。そんな事は知らない。 ふーん、と阿含が言って、その後は何も教えてくれなかった。 「あの、続きは…」 「ねえよ。それだけ」 声が苛々しているように聞こえるのは気の所為だろうか。待たせたから腹を立てているのかもしれない。尖った牙が首に浅く食い込んでははっとした。落ち着いて話なんて聞いている場合じゃあなかったのだ。 「た、たす、たすけてー!だれかああああっ」 「うーるーせーえーな。それ以上キンキン鳴くと孕ますぞ」 「今まさにそうしようとしてるじゃないですか!!」 喚いて、ブロックの表面に爪を立てる。阿含が怒ったふうに、噛みつく力を強めた。もうだめだ。観念して目を瞑る。 その途端、ブロック塀を細い影が覆った。 お天道様が急に隠れたわけでもなければ、雨雲がかかったわけでもない。何かがいる。生き物だ。誰の物とも分からない気配に、縋るような心持ちでは辺りを見回した。この際犬でも鳥でも構わない。だが匂いから言えば、そいつは同族のようだった。 「阿含、お前―――」 声がした。上方から、と分かるや、は慌てて空を見上げた。 『それ』がいたのは、二人が縺れ合う塀を見下ろす、人家の屋根の上だった。逆光の所為で上手く見えないが、目の覚めるような浅緑色が瞬いたのだけははっきりしていた。次に姿を捕らえた時には、それは二人の目の前にいた。まるで一瞬の動きだ。はぽおっと口を開けてそのオス猫を見つめた。自分よりも二回りほど大きい体格、黒白の斑点模様。『それ』は一見すると阿含の影のようだった。そう思ったっておかしくないくらいに、まるきり瓜二つなのだ。 知っている相手だった。雲水さん。呟いて、は安堵した。最早救われたも同然の気がした。金剛の片割れ、雲水は、折り重なる二匹を交互に見比べて、顔は無表情のまま背中の毛をさあっと逆立たせた。 「…お前、と、いう奴は…」 低い声が震えている。先端部の黒い尾が剣山のように尖って、膨らんでいる。誰の目にも爆発一歩手前、を思わせる様相だ。実際、その通りになった。 「この、馬鹿!!」 それが怒声の第一号だった。は耳が潰れるかとさえ思った。犬の鳴き声すら凌ぐ大音量だった。 「朝になっても帰らないから心配して探しに来てみれば……ッ」 憤激して言葉すらないようだ。フーッと威嚇の鳴き声が前からも後ろからも聞こえて、は嫌な予感に顔を曇らせた。いつの間にか、とんでもない兄弟喧嘩に巻き込まれつつあるんじゃないだろうか。 「さん家の娘さんに、何をやってるんだお前は!」 「見りゃ分かんだろ、交尾」 「正直に強姦と言え。責任だって自分でとれないくせに―――」 「孕んだらうちで引き取りゃ良いだろ、こいつごと」 「最初からそのつもりなんだろうお前は……いいか、何度も言うようだが人様の物を勝手に掠め取る気でいるんじゃない。もらいたいなら正当な手順を踏め、手順を!」 ……二、三言ほど聞きたくない単語が耳を通り抜けた気がした。今日の内容は全て記憶から消そう。抹消だ、とは固く心に決めた。首筋がまだずきずき疼く。もう嫁に行けなかったら、どうしよう。 *** 一悶着をどうにか切り抜けて帰宅すると、姉崎さんの所のまもりが来ていた。飼い主は二人して何やら話し込んでいる。また、ご近所の噂話らしい。 「! いなかったから、寂しかったわ。疲れた顔してどうしたの?」 「いや、その……」 喧嘩に巻き込まれただなんて言って、余計な心配はさせたくない。困っていると、まもりが鼻を近づけてくんと匂いを嗅いだ。それから確信的な、不安げな顔をして、悪いオスと何かあったのね、と訊く。また随分と鋭いお言葉だ。 「怪我は? 酷い事、されなかった?」 「う、うん。色々大変だったんだけど、良い猫に助けてもらえて」 あまり掘り下げずに話すと、親切な彼女は自分の事のように憤慨して、次にあったらとっちめてやるんだから!と強く息巻いた。相手が相手なので、正直な所、難しいだろうと思う。ふと、毛を逆立てて唸っていた雲水の影が脳裏を過る。まるで人間のテレビに出て来る正義のヒーローみたいだった。彼には、今度会ったらお礼を言わなきゃあならない。 「あっ、そういえばね」 まもりがふふ、と笑って綺麗な長い尻尾を揺らす。よほど嬉しい報告でもあるんだろうか。 「の飼い主さんと、金剛さんの飼い主さん、近々結婚を前提に同居するんだって。今二人が話してたんだけど、もう知ってたかな?」 ―――人間なら吹いていた。間違いなく。 「あれ? どうしたの、。起きてるの、?」 多分白目をむいている。生きた心地がしない。いや、いっそ死にたい。 もしも人語が喋れるなら言葉は一つだ、とは思った。「頼むから考え直せ」。今はそれしかない。 「、息してるの!?」 目が回る。息も苦しい。こういう時に限って全ては夢じゃあ終わらないのだ。幸先、非常によろしくない。よろしくない、と確信する。 意識が遠退いて行くのに任せて、はもう目覚めたくないと思った。(悪い事も何にもしてないのに、今日まで出来るだけ正直に生きて来たのに!)一体閻魔とどんなご縁があってこんな地獄を生きていかなきゃあならないのだ。冗談じゃ、ない。 (つづくかもしれないような) 06.08.06 |