「まだ泣くわけ、お前」
 うんざりした口調で、阿含が言い放った。
 思いやりの欠片もない。彼がそういった無駄な物に重きを置く種類の人間じゃあない事ぐらいは知っている。
 は真っ赤になった目をワイシャツの袖で拭うと、ゆるく首を振った。
 別に泣くわけじゃない、と伝える為のサインだった。
 「あっそ。じゃあ早く立てよ」
 彼は自分の服装を正し終えると、無遠慮に言い捨てた。
 下の者に命令するような言いぶり。
 冷淡な低音。
 知らない内に拳を握りしめていた。優しさを期待しているはずでもないのに、何がそんなに腹が立つのかは分からなかった。
 この口をきかない女に、彼がさっさと飽きてくれれば良いと思った。
 一杯に溜め込んだ息を吐き出すと、下腹部の痛みが明瞭になった。
 骨のじりじりという疼きと共に昨夜の記憶が現実味を帯びて、死にたくなった。
 彼女には時間が分からなかった。何処へしまったのか思い出せない携帯を探す気にもなれない。
 まだ夜が明けきらない時刻だろう事は推測出来た。日は差していないし、辺りは日陰と日向の区別もなく、一面薄緑色の仄暗さに満ちている。
 路地の先の開けた道路にも、人の気配はない。
 「立て」
 下命が繰り返された。は顔を上げなかった。
 壁に預けた体はまだ重たい。足は力が抜けて使い物にならなかった。
 また理不尽な癇癪を誘発するかもしれない可能性は恐ろしかったが、今は恐怖よりも置いて行ってほしい気持ちの方が強かった。だから二度目の勧告にも取り合わず、膝に顔を埋めた。

 気短な男は、珍しく怒らなかった。
 笑った。笑って靴の爪先を打ち鳴らした。
 縮こまっていた肩が神経質に反応し、震えたのを見て、口角を軽く歪めた。
 「俺にそういう態度とるんだ? 
 はっとして、は顔を上げた。
 訝し気に睨みつけると、彼は馬鹿にしたように声を立てて笑った。
 「……なんで、名前」
 「ああ、お前のコレ貸してもらった」
 投げられて、咄嗟に受け取ったのはしまったはずの携帯だった。
 黒いボディには細かな傷が入り、ストラップのガラス玉が大きく抉れて半分の大きさになっていた。倒された衝撃で砕けたのかもしれない。
 「なっ、なに勝手に…」
 「怒んなよ。ちゃんと返してやったんだぜ」
 きつと睨みつけると、わざとらしく肩を竦めて壁に寄りかかった。
 昨日の凶暴性こそないものの、不快なほどに綽々としている。
 「あのカス投手の前じゃもっと従順にしてんだろ。なあ、
 探るような笑みを向けられて、はまた押し黙った。
 一々本気で対応した所で結局は彼を喜ばせるだけだという事は、頭で考えなくとも嫌と言うほど理解しているのだ。
 出来る限り何も考えないようにした。目を虚ろにして、彼との間に隔たる宙を見つめた。きっとひどく頭の悪い顔に見えるのだろう。
 「何か言えば」
 低い声が耳を打った。今度は僅かに苛立ちを含んで重苦しい。
 また無視を決め込むつもりだったが、許されなかった。阿含はに歩み寄り、例によって乱暴な所作で彼女の頭を鷲掴みにした。
 髪の一束二束にゆっくりと指を通したかと思うと、突然後ろに強く引いた。一瞬の悲鳴。不規則に上下する喉笛を見下ろして、彼は微笑した。
 白い首筋には、それと対照的な色合いを持って点々と鬱血の痕が浮かんでいた。執拗に刻み付けられた朱色はそこだけに留まらず、更に下へと連なっている。
 見られていると分かって、は小さく顔を顰めた。意地の悪い性質。この男のそういう所が、やはりいけ好かなかった。
 「。呼ばれたら、返事は?」
 瞳がかち合う。子供を呼ぶような声色でわざとらしく名前を呼ぶ。
 苦痛と嫌悪で青白くなった顔に満足を感じたらしい。語気が弾んでいる。異常な嗜癖だと思うが、それを指摘するだけの勇気はなかった。
 は目を逸らして、小さく、放っといてくださいと呟いた。
 「…もう、構わないでください。捨てて、置いて行って」
 「なんでお前が俺に命令してんの」
 「なんであんたそんなに私の事構うんですか」
 減らず口を叩き終えてしまってから、はぞっとした。鳩尾を襲ったあの痛みが脳裏に甦って来た。しかし杞憂だった。
 彼は長い事目を見開いて足下の女を凝視したが、何も言わなかった。
 道理外れの怒りも蔑んだ嘲笑もなく、硬い指先は捕らえていた頭を静かに離した。
 そうして空いた手の平は、何の説明もなさないままを引き上げた。
 「いっ…」
 腕が引き攣れて、痛んだ。脚がついて行かない。
 阿含は訳が分からないといった様子で眉を寄せ、面倒臭そうに力を弱めた。
 「なんで立てねえんだよ」
 「じ、自分が昨日した事考えてください…」
 「……あー。貧弱な腰してんな、お前」
 見たまんま、と囁いて阿含はを抱え上げた。
 あまり軽々とやられたので初めは何をされたかも分からずじっとしていた。やがて体の密着の度合いに気付くと、は目を白黒させた。
 「ちょ、っと、何してんですか!」
 「抱っこ。気に入らねえならおんぶしてやるけど?」
 「……せめてそっちにしてください」
 嘆息し、仕方なく向きを変えて乗せてもらう。
 その後長々と逡巡したが、肩、という彼の言葉でそこに掴まる事に決めた。

 疑いが拭いきれずに、は時折彼の背中を凝視する。
 彼が向かおうとしている先は知らない。何故必要もないのにを待っていたのか、わざわざ抱え上げてまで連れて行こうとするのかも知らない。
 女子高生を背負い歩く男という図は、珍奇に見えるに違いないのに。何にせよこれが早朝で良かった、とは思った。道はまだ人気がなく、それに涼しい。
 「あ、あの」
 「なに」
 「…これから何処行く気なんですか」
 恐る恐る聞いてみる。阿含は答えず、歩き続ける。
 脇を続いていたガードレールが途切れる辺りまで来てから、やっと口を開いた。質問から数分が経過していた。
 「俺の家」返答はその一言に尽きた。
 「は…?」「文句あんの」
 文句があるどころじゃない。は彼の目に映らないのを承知で首を振った。
 「…いやです。何の為に行くんですか」
 「お前の頭と口んとこの怪我手当てしてやんだよ。有難く思え」
 頭の傷も口の傷も彼が手を出した事に因るものだ。一体何に感謝しろと言うのか、は呆れたが、声には出さなかった。
 「じ、自分で出来る。そのくらい」
 「知るか」
 取りつく島もない返答。弱る。このまま彼の背に乗せられて行けば、またどんな酷い陵辱が待っているか分からない。かといって逃げられもしないし、彼を説得する術だって到底思いつかない。
 「あんた、家族は……」
 「親仕事。雲水部活。別に問題ねえだろ」
 「………、そう…、ですか」
 生気のない声で相槌を打って、は青ざめた顔を俯かせた。
 これ以上もうどうする事もない。
 最前を尽くしたのに最低の結果にしかならなかった。
 いっそ投げやりな気分になる。どうせ助けなんか来ないなら、もうどうにでもなれば良い。泣きたい。

 傾れ込むように疲労がやって来た。
 瞼を瞑り合わせると、光の残像しか見えなくなった。
 (ひるまさん。ひるまさん、私、最低の男に捕まったみたいです)
 硬い靴の地面を蹴る音が聞こえる。鼓膜を震わせるだけで、まるでリアルじゃない。
 欠けてしまったガラス玉の事を思い出した。透き通った金色の塊。
 (悪魔のあなたより、ずっと悪魔みたいな)
 体も、頬も渇いていた。
 悲しくてしようがないのに、涙は出なかった。
 「きらい。きらい。だいきらい。だいきらい。おまえなんか、死んじゃえ。死んじゃえ。だいきらい」
 代わりに壊れた玩具みたいな一本調子の憎悪が漏れた。
 阿含は何も言わなかった。止まる事もなかった。そうする価値もないと思ったのかもしれない。
 (死にたい。ヒル魔さん。殺しに来て)
 この悠長で気が遠くなるような道程が、何処までも延びて行くように思われた。暗緑色の空間が、果てしなく続いていくような、気がした。家には帰れない。帰してくれない。
 さして暑くもないはずなのに目眩がした。
 肩に置いた指が震え出した。
 「……気持ち悪い」 
 その言葉に効力なんかない事は、だって分かっている。
 分かっているのだ。














 06.07.18
改06.08.20