後悔がないわけじゃあない。ただ、ちょっと馬鹿馬鹿しいと思う。悲しいとも思う。でも口に出したからって今更どうにもならないんだったら、とは割り切った。
 案外冷えきってる、と思った。自分の心だ。腕を押さえつけて来る手の平は熱い。直に感じる他人の体温は変だ。異性の体温となるともっと変だ。熱い。幼児みたいに。熱い。
 「そんなに押さえなくても、逃げないのに」
 呟いて、は阿含を見上げる。何処までも何処までもマットな、劣情も逆上せも見当たらない彼の顔を見上げる。腕が痛いんだ、という意味合いも込めじっと睨む。
 「ふーん。お前もっと嫌がるかと思ったのに」
 阿含は意外だと言った。心から意外そうだった。でも腕は離さなかった。逃げ出すのを警戒しているらしかった。
 「処女観念とか別にないから……でも、この場所は良くない気がする」
 「いいだろ別に。俺の家だし」
 「リビングじゃないの」
 「良いじゃねえか、スリルあって」
 「バカじゃないの」
 「殺すぞ」
 「これ誰か来たら、面倒になるし」
 「お前の世間体がか? 心配しなくてもどーせ帰って来ねえよ。俺が把握もなしにこんなとこ使うか、バカ」
 「ああ、なるほど……すごいね阿含は」
 「お前マジバカだろ」
 呆れているのか蔑んでいるのか、どちらにしろ表立って顔色は変えないままで阿含が言った。は反応を示さない。十年来続いて来たこのやりとりに感慨など沸くはずもない。それは阿含も同様のようだった。彼はつまらなそうな顔をして、合意も得ないままの衣服に手をかけると、剥ぎ取り、床に投げ捨てた。

 激しい風になびいて枝から剥がれそうになる木の葉たちの、切羽詰まった抵抗の音が聞こえた。雨はまだ降っていない。これから降るだろうと思われる。そういえば洗濯物を取り込んでいなかった。一昨日も昨日も今日も雨。雨。雨。雨。あの気に入りのキャミソールがまた着られない。
 は仰向けに転がされたまま、窓の向こうを見遣った。外は荒れている。この分だと部活が予定よりも早く切り上げられて、雲水が突然家に帰って来るかもしれない。遠くの空に稲妻が走った。
 「あ。雲水に嫌われるのはイヤ」
 「なんだよ突然」
 「だってこんなとこ見られたら絶対軽蔑されるし」
 「ありえねえ。あいつなら迷わず俺が強姦してるって思うだろ」
 「まあ似たようなもんだけど。ていうかこれ強姦じゃ」
 「ない」
 「……ないの」
 よく分からない。理解が及ばないのは阿含が天才でが凡人だからなのか、単に常識の捉え方が違っている所為なのか。無理矢理に婦女子を犯せば、そこでもう強姦のはずだ。は抵抗していない。殴られたわけでもないのにじっとしている。恐いはずでもないのに、されるがままある。ではこれは強姦には入らないのだろうか。だが阿含のやり方は乱暴だ。
 「私がやめてくださいって泣いて抵抗したら、立派な強姦だよね」
 「してみるか?」
 「うーん、雲水には嫌われたくないし……保険かけるとでも思って、一応やっとこうかなあ。どうする、阿含くん」
 半分は真面目に、半分は戯けて言いながらも、は自分の腕にまるで力が入らないのを自覚した。結局は本気じゃあないのだ。
 「って、俺より雲水のが好きなわけ」
 「わかんない」
 「はっきりしろよ」
 「なんで?」
 問いに、阿含は答えない。着々と手だけを進めて行く。衣服の擦れる音が仕切られた静寂の中で空虚に響いている。
 ままごとのようだった。それは中身を伴わない儀式だった。もしかすると彼はそこに快楽を求めていないのかもしれない。形式だけの行為に満足する気なのかもしれない。(そんなのはさみしい)は先程よりもきつく目を細めた。(私がさみしい)妙に苛立たしい。
 「逃げるの。阿含らしくないね」
 「舌噛みたくなきゃ黙ってろ」
 「私が、雲水の方が好きって言ったら、どうするの。阿含は私をどうかしたの。殺しでもしたの。怒ったの。刺したの」
 「それ、本音か」
 「どれが」
 「雲水の方が」
 「俺より好きかって?」
 また、阿含は答えない。肝心な所から逃げてばかりいるように見える。やはり彼らしくない。不快だ。
 「人の質問にはだんまりなの? 臆病者。どうしようもないね」
 「…あ?」
 独特の濁った低い声は、昔から癇癪を起こす直前のサインだった。阿含が怒りに目を細めるのが分かった。
 「もう一遍言ってみろ」
 「じゃあ言うよ。臆病者。どうしようもない」
 (言ってほしいんだ。自分から訊く前に)は考えた。彼は、きっと焦れている。今、すぐ、拳が出そうなくらい余裕がないくせに、平気そうな顔でいようとしている。腕を掴む指に力がこもっている。熱が増している。(しかも、自分がほしい答え以外は許せない、わがまま)
 服を剥いでいた手は中途半端に、やりかけのまま止まっている。動かせる事も忘れている。元より彼にとってそれは重要な行動ではないからだ。
 彼を駆り立てているのは肉欲ではない、愛欲でもない、

 「どっちのが好きとか、何なの、あんた。すごく腹立つよ。本当は、雲水と比較する必要なんかないくせに」

 彼は単に、

 「正直なこと言ってほしいわけでもないくせに、阿含がほしいのは私の本音じゃあなくて、自分に都合の良い言葉ならなんでもいいくせに、好きでもない私とセックス出来るくせに、こういうこと訊くんだ。結局、おさななじみに自分の優越を確かめてもらわないと、安心出来ないんでしょ。弱虫。臆病。お兄ちゃんより低く見られるのが、自分の一番が否定されるのが恐いんだ」

 単に、

 「阿含は、本当に他人を好きになったことないんだよ。自分しかここにないの。誰でもいいから、自分と雲水を知ってる人に評価してほしいだけ。やさしくしてほしいだけ。大事に扱ってほしいだけ。理解された気分になりたいだけ」
 「見てほしいだけなんでしょ。阿含がほしいのは私じゃないのに。誰でも構わないんでしょ。誰でも」
 「だったら私、あんたなんか」

 単に。

 「うるせえ。それ以上言ったら殺す」
 「殺せば? 出来るならだけど―――」


 答えは最後まで聞き入れてもらえなかった。訊いたのは彼なのに。
 好きにしたらとが言う暇もなく、硬い五本の指が、いや十本の指が首筋を捕らえていた。
 掴まれた瞬間、その一瞬だけ、阿含の眼の奥が恐ろしい空虚に変わった気がした。そこは雑然としていて何もなくて生の臭いもなくて退廃的な、まるでかわいそうな彼の、可哀想な心象風景のようだった。は驚いた、そうして息を飲んだ。この時はまだそれが可能だったので咽喉がヒュッと風の音を立てた。
 間を置いて、じりじりと次第次第に苦しさがやって来た。圧迫感、不快感、浮遊感が立ち代わり入れ替わり訪れて、頭痛がした。酸素の循環が止まっている。
 締まる。絞まる。首が絞まる。
 暗い色の瞳を、は見た。彼にはもう犯す気力もからかう気力も蔑み笑う気力も残ってないようだったけれども、喉元を締め上げる彼の顔色は至って平静なままだった。一心不乱と言うには冷然とし過ぎていた。殺す気はない。離す気もない。ただ絞めている。
 静かに、落ち着いて。でも、脅えた子供みたいに目ばかり見開いている。
 阿含は空っぽだった。
 は自分勝手な彼が憎くて、出来るだけひどい言葉をぶつけて切り裂いて思い切り傷つけてやりたくて、でもひとりぼっちで哀れな彼を助けてやりたい気がした。だってそんな事をしたら阿含がかわいそうだ。追いつめたら泣いてしまうかもしれない。いや泣けばいい、苦しめば良いんだ。苦しめ。だけどかわいそう。かわいそうな阿含。
 いかりと、やさしさと、入り混じった不思議な感覚がの中を満たした。矛盾の堂々巡りだった。
 何を考えているのか分からない、もしかすると何も考えてはいないのかもしれない目の奥を見つめて、は右手を伸ばした。


 無意識に、彼の頬を撫でていた。
 乾いていた。涙が流れる予兆すらない。彼はが思っているほど泣き虫でもないし弱虫でもないのだ。そしてが思っているよりずっと、我が強くて不安定なのだ。

 (自己顕示欲。認めてほしい、見てほしい、気持ち、阿含の、一番大きいもの、いつまでも膨張し続けるもの、阿含を作るもの)

 ゆっくりと、手が、滑った。彫の深い目尻、頬骨、口角―――を滑って、顎に辿り着く。彼の拒絶が見られないので、そこに躊躇はない。

 (こんなに人から期待されて、妬まれても、空っぽ)

 阿含は力の抜けた指先をの首に巡らしたまま、静かに佇んでいる。
 虚ろに見下ろす目に、あの破壊的な自我は最早ない。

 (……私も雲水も周りも全部憎いくせに、殺せもしない)
 (ひとりぼっちがいやだから。でも無関心も恐いんだ)

 腕が、強張って、微かに震えていた。
 もう息が出来る。苦しくもない。は阿含の諦めを漠然と悟った。
 (私あんたを嫌いとか、あんたのこといらないなんて、もう言わない)
 こんな浮ついた事を言ってみた所で彼は信じやしないに決まってる。でも他にしようがない。やさしくしてほしいくせに、彼の行動はいつも本心と対蹠的でどうしようもない。どうしようもなく、幼稚なのだ。
 は頬に伸ばしたままの手を止めて、隙のない疑心暗鬼の前に暫し困却した。
 彼の満足する答えが、果たして彼を本当に幸せにするのか計りかねた。幼稚な拒絶を続ける阿含が、このままずっと孤独なままなら、それはとてもとても惨めで哀れな気がした。彼にお似合いの孤高が、他ならない彼をいちばん蝕んでいるんじゃあないかと思った。
 (かわいそうな阿含)
 何をしてやればいいのか分からない。方法が見当たらない。時間だけが刻々と過ぎて行く。阿含が泣いてくれば良いのに、とは思った。そうしたらこんな気まずさもなくて、子供相手にそうするように頭を撫でて、慰めてやれるのだ。
 (私は、あんたを、絶対に) 
 頬を滑り落ちて床につく、自分のものじゃない手の平を、阿含は黙って見ていた。見下ろしていた。涙はないが、死にそうな顔だ。今にも空気に融けて、消え失せてしまいそうな表情だ。は彼を助けてやりたいと思った。



 (裏切らないよ、阿含)



 どうにかして、助けてやらなきゃいけないんだとおもった。











06.06.24