「阿含くん、お願いだから町の女性の匂いをさせて帰って来ないでくれないかな」「俺に指図すんな。殺すぞ」 一歩まかり間違えるとすぐにでもぶち殺してやりたくなる、でもひどく愛しい、極悪非道で利己的で胸が悪くなるくらいあらゆる分野に有能な男。といってそれらを決して鼻にかけないのは、彼がそれを偉い事でも何でもなくただ自分に付加された当然の物と確信しているからで、だからこそああして常に傍若無人で居られるのだろう。彼には「特別」の余裕がいつも漲っている。 いつだったか大真面目に阿含なんかいっぺん死ねばいいのに、と言ったら、なにお前嫉妬してんの、と不愉快な笑顔でもって返された。馬鹿言うなよ何に対しての嫉妬だよと訊けばそりゃ俺の才能だ決まってる、と言う。まったくもってふざけている。彼は沢山の女を抱くし彼女らの為に日々時間を作り割り当てる(実際は自分の肉欲の為だ)至って勤勉な女好きだが、マジメにオツキアイしている相手はただの一人もいない。恋人は才能だ。今も昔も。それに対してがやっかんでいるんだと言う。俺と俺の才能の恋仲にお前苛立っているんだろうと、あの檻の中の猿を見下すようなにやにや笑いで馬鹿げた推論を突きつける。ああうん、やっぱ死んだらいいよ、と言ったらお前マジ可愛くないだの世渡りが下手なのも問題じゃねえのだの勝手な事を零しながら腰を触ったので、手で叩いて振り払ってやった。払われるとそれ以上は何をしようともしない。彼は、そういう男だ。にあまり興味がないと見える。 どちらかと言えば彼よりも、彼の兄の方が好きだ。常識的で性格も姿勢も人として好ましい。だがそことは別に愛憎怒気怨恨といった執着の強さに絞って考えてみると秤は明らかに弟の側に傾くのである、不可思議な話だ。実に解せない。 そうが言えば、彼は顔を歪めて機嫌を損ねた事をはっきりと見せつける動作をする。意識してやっているのかは知らない、ただ彼が存外に子供っぽい人だという事だけは知っている。だけどその反応だって間違っちゃいない。他人に面と向かってされて面白い類いの話ではない。何しろ天才の彼だ。自分以外が選ばれる事などあってはらないと大真面目に思っているのかもしれない。単なる冗談であんな分かりやすい対応をする男ではない。どうでも良いと思えば、本当にどうでも良さそうな応答しかしない性分なのだ。 「阿含くん、お願いだから血の付いた服をまんまで洗濯機に放り込まないで」「うるせえよ。殺すぞ」 その顔を拝む度、は阿含に腹を立てる。それと同じだけ愛情も感じる。けれど割り切るべき所は割り切っているし、定めた上限以上を望みもしない。何の前触れもなく唐突に殴りつけたくなったり抱きしめたくなったり踏みしだきたいと感じたり、そんな無謀とも言える熱情の凶暴性に追われて思わず手が出かける事はあっても、次の瞬間には冷静なストッパーがかかっている。自身の理性が異常なく機能している事を、は苦々しくも実感する。 だが阿含はのようにしてはくれない。器用なくせに、絶対に綺麗に割り切らない。わざと気のあるような素振りを見せて、隙さえあればそっち側に引っ張って行こうとする。ともだちでいたい、と声に出さずには言う。だのに二人の間で行われるやり取りと言えばいつも化かし合いだ。悲しくなる。どうして純粋に楽しくやっていられないのだろうか。相手が悪いのかもしれない。一向に理解の訪れない阿含に憤って、不覚にも泣きかけ、まんまと彼の手に落ちる寸前へ行った時もある。彼は他の幾人の女もそうして手に入れて来たのだろう。ただが彼女らと違うのは一線を踏み越えようとしない所だ。 むきになっているのかもしれない。あるいは意気地がないだけかもしれない。私はそっちにはいけないとは呟く。やはり声にはならないが、対岸の阿含には通じている。如何にも意を汲んだような顔をして、彼は何も感じてはいない。改める気はさらさらないのだろう。彼はよく笑っている。苦しい事なんか一つもないらしい笑顔で。は思いの外苦しんでいる。どうしてこんなに苦しむのだろうな、と不思議に思う。彼一人の事で。たった一人の事でだ。四方を見回せば他に幾らでもともだちはいるのに、一体なぜ。分からないからこわい。答えが出ないものはこわい。名前のつけられないものはこわい。分類しなければならない、区分けしなければ、仕切られた箱の枠の中に整然と収めなければならない。は焦燥している。 「阿含くん、寝てる人の顔を触るのはさすがにやめてくれよ」 「……起きてたんならさっさと言えバカ」 「言ってたらしなかったの?」 「しなかったら残念だったか?」 「質問に質問で答えるのってマナー違反だと思います」 「文句言うな。殺すぞ」 何を言おうが結局は全部殺すのか。破壊的なやつだ。は笑う。彼のどうしようもない子供らしさがおかしくて愛おしくて堪らない。散々けたけた笑ってから、ふと隣室に寝ている雲水の存在を思い出す。早く部屋へ帰った方が良い、という旨を目で伝えてみるが、彼は横に首を振るばかりで出て行こうとしない。 これは困ったと眉を顰めてみる。そうしてぼんやり苦悩を感じている内に、しっかりと逃げ場を失っている事態に気付く。唇に、温かく意志を持った何かが触れて意識を取り戻す。駄目だ駄目だとは腹の内で思って、しかし現実にはそれをどう対処する事も出来ずにいる自分がいて失望した。苦し紛れに「お兄さんが来ますよ」と言ってはみたものの、予想していたのとはまるで響きがずれている。「昼ドラかよ」と阿含がくつくつ笑う。口走った本人もまさにそう考えていた所だった。考えても考えてもはね除ける手立てが浮かばない。腐っても狂っても彼は天才なのだ。もう一度口の先を啄まれる。浸透する感触のあまりの心地よさに辟易して、は目を閉じる。 今だけだ。こうして大人しく、彼の一方的な攻撃に甘んじているのも今だけ。 (一線は、だめだ。超えるのはいけない。阿含とずっとともだちでいたかったら、絶対だめ。それをやったら私はただの女になる) 布団の下に潜んだ足が彼を蹴り上げるまで、あと、五秒だ。 06.05.26 |