拳を、腹に叩き込まれた。
 彼にしてみれば軽い一撃だったのかもしれない。にはひどい痛手だった。
 眼前でちかっと目映い一等星が瞬いて、瞬間、目眩が訪れた。数度その場でお粗末なステップを踏んで後退し、気付いたら壁際に倒れていた。
 立てなかった。痛みに打ちひしがれながら、もうだめだ、とそこで気付いた。



 「弱ぇな、お前」
 何の感慨もなく呟いた。
 目は獲物を見る猛獣の、まさにそれだった。
 よく目にするやさしげな、そう、町を歩いている女の子に向けるような浮薄さや甘ったるさは微塵も存在していなかった。あるのは何処までも尖鋭な夜の輝きだけだった。
 金剛阿含。名前はよく聞く。試合も見た。恐い人だって話は有名だ。(近づいちゃだめ、とか。セナくんに言われた気がする)実感がやっと沸いて来た。
 きゅうっと胃が縮こまる。
 競り上がって来た何かを堪える為に、は努めて心を落ち着かせ、長い瞬きをした。喉元が震えていた。恐怖している気もするが、そうでない気もする。滞る曖昧な感覚を真っ黒に塗りつぶしてしまおうと、悪意を孕んだ陰湿な闇がすぐそこに迫っていた。

 夜の街を流れる風はいやに退廃的で、肺に触れると冷たい。その乾いた流れの後をつけて視線を上げて行けば、とある所で視線がかち合った。獣じみた男の目だ。見つめていると気が遠くなる。
 近づいて来る彼の足取りには余裕と、そして自信が溢れていた。
 獲物に感づかれないため肉食動物がそうするように靴音を立てないままゆったりと間合いを詰めそうして気負いなく手を伸ばして、の頬に触れる。肌に張り付いた猫っ毛を骨張った指先でそっと取り払う。
 彼はじっと見ていた。見下ろしていた。何かを計りかねているふうにも見えたが、真相は知れなかった。頬に添えられた手が首筋に降りて来た。
 ぐっと力を込められる。気道を上から押さえ込まれた。
 咽せた。頬を塩辛い雫が伝った。
 痛みとか悲しみじゃあない、至って生理的な熱いもの。
 (…くる、しい。殺すつもりなの。このまま?)
 百年の天才などという肩書きを引っ提げるだけあって、力は強かった。
 意識が急速に白み初めていた。夜空の月がぼんやりと青い。か細い呼気が肺を出て行く。虫の息、というやつだ。
 (そうか、気にいらないんだ。私、が、ヒル魔さんの仲間だから。泥門だから)
 思考が浮かんでは破れ、浮かんでは破れ、次第に脳味噌から根こそぎ剥がされて行く。
 絶体絶命の危機。そんな手応えはまるでない。目に殺意がなかった。憎悪に似通った光はあったが、何処かで一致していなかった。
 なにをしたいのだろうか。
 殺すんじゃないなら。
 (勝手な人にはもう慣れたと思ってたけど……勝手過ぎる、この人)
 部活の帰り。商店街。不意に話しかけられた。
 来た事もない土地。断る事はできなかった。
 暗い路地裏。黙って連れ込んで、突然殴り倒したかと思えば、嘲笑して、やさしくした。頬を撫でた。そうして再び乱暴に、首を絞めた。
 わけがわからない。
 は、彼のような完全無欠の天才とは違う。貧相な生き物なのだ。頭も、体も。
 「……っ、んで…こんなこと するん、です、か……!」
 押さえつけられた声帯から必死に絞り出した声は、掠れていた。
 これ以上強くやられたらアウトだな、との胸を不吉な予感が過った。
 だが意外にも喉元の手はすんなりと離れた。途端に呼吸が楽になった。酸素を後追いするように、痛みも押し寄せて来た。鳩尾に落とされた一発を思い出す。
 (どうして。関係もないのに。因縁もないのに)
 (私ただのダメマネジじゃん。凡人だから駄目とか、言うの。むかつくとか)
 悲しみ、怒り、それとも理不尽への憎しみ、だろうか?
 反発と自制とが同時に心に作用して、その状態はをひどく不安定にさせた。手は離しても、絶えず付いて回る黒い瞳が恐ろしかった。何を監視しているのだろう。
 「……お前、腹立つんだよ。カス。最近あのザコが妙に気にかけてるみてえだったから、どんな奴かと思えば。本当にただの貧者女だ」
 あのザコ、と言われている対象が分からずには顔を顰めた。僅かな変化だったが、それを見て取ったのか阿含は口角を曲げて言った。
 「お前のとこの、能無し投手の話だよ」
 投手―――それは、もしかするとヒル魔の事だろうか?(ふざけるな)あからさまに侮蔑を込めては顔を顰めた。(ヒル魔さんをそんなふうに呼ぶな。お前なんかに何が分かる)苛立は言葉にならなかった。
 そこで精一杯、はぎろりと睨みを利かせた。
 到底褒められた行動ではなかった。後先を考えないでそんな真似をすれば、この短気な男の怒りを買うのは明白だったからだ。


 「―――っ!」
 馬鹿な事をしたなと後悔しかけた矢先、パンと乾いた音が路地に響いた。
 左頬がぴりぴりと痛んだ。表情は硬直していた。唇の端から、赤い鉄が流れ落ちた。先程までは喉に、その前までは頬に触れていた阿含の手が、今は視界の隅に映っていた。
 「お前、うぜえ」
 簡潔な宣告。固く、冷たい言葉の手触り。
 体が動かない。目を見開いたまま、壁に背を凭れて、座り込んでいる。情けない姿だ。ヒル魔が見たら笑うか、怒るだろうか。今やそんな事を考えている余裕もなかった。
 再び、手が伸びて来る。
 悪逆ばかり働く、凶暴で粗野な手。確認するように髪を掻き分けて、後頭部を掴んで引き寄せた。が顔を歪めるのもてんで構わずに、創傷から流れ出た血液の筋を舐めとり、唇に運んだ。
 とろりとした何かが舌先を伝うのを感じた。熱と苦みしかない鉄と、二人分の液体の味。滑り込んで来る。(こいつの物を飲み込むなんて)我慢ならなかった。渾身の力で身をよじる。圧倒的な力の差を前に、しかし、それは無意味だった。彼がこの途方もない状況を心から楽しんでいるらしい事は嫌でも分かった。瞳の奥に浮かぶ歓喜の色。
 (汚い、こんなこと。ヒル魔さんならしない。絶対しない)
 太腿に体重がかかった。足を内側に固定するような形でのしかかられていた。頭を押さえつける腕にしがみつくが、びくともしない。逆にその腕すら取られて、全ての動きを封じられる。
 とうとう、本当に逃げられなくなった。


 湿った後味を残して、唇が離れた。
 迷いなくえずいた。赤い濁りの混じった液体が地面に飛び散った。咳き込んだ。気味の悪い余韻。早く、家に帰りたい。温かい所に帰らなければ。
 「ど、どうし、て、こんな……私、何かしたんです、かっ…?」
 端に傷を負った唇が、戦慄いた。
 「別に、何も」
 阿含は鬱陶しげに答えてやって、暫しを観察した。
 目尻に涙が滲んでいる。呼吸が荒い。肩を浅く、何度も上下させては震えている。
 本当に、頭に来るほどか弱い女だ。偉そうな事を言ってみたりする割に、脅えてばかり。睨んでみたり、キレてみたり、そのくせ何の力もない。
 「単に見てて苛つくんだよ。 泥門なんてクソだらけの集団にいるのが、まずうぜぇ。あの狡いカスはお前の何に惚れてんだ? 役にも立たねえ、顔も体もパッとしねえ、軟弱だ。それに」
 (―――それに?)それに、なんだろうか。後が続かない。
 才能という言葉がこれほど似合わない女もなかった。恐いくせに、今もただされるまま、放心している、。脆弱な。虫けら。気に食わない。
 何より言動が支離滅裂だ。真摯ぶった顔で、ふざけている。
 そう、の不愉快な所など上げて行けばキリがない。考えるだけ無駄なものだ。意味のない時間だ。
 だが、どうにかしてやらなければ阿含の気が済まなかった。
 「………もう良い。決めた」
 襟に、僅かに血の染みたシャツ。前置きもなく荒々しく掴まれて、は再び困惑する。手が外側にぐっとシャツを引っ張れば、ボタンは難なく弾けとんだ。
 肌が外気に晒される。腹部をなぞるように、手が入り込んで来た。
 「お前、一晩かけてじっくり殺してやる」
 おかしな感触。蛇の這うような指使い。
 その行為の暗示する所を知って、の顔から色が失せた。
 「や、やだっ…はなして…やめ、て、くださ」
 抗いは聞き入れられない。
 どうにもならない悪寒が体を浸食して行く。そうだった、こんなやり方も出来る人なのだ。やろうと思えばいつでも可能だった事を、今までしなかっただけで。
 (この人は、苛ついてたんだ。私が目の前を歩くのも、我慢出来ないくらい)
 ずっと、ずっとこうしようと思っていたのだろうか。それとも、突発的に?
 判別はつかなかった。ただ、真新しい熱が瞼の奥に生まれた。
 こんな取り返しのつかない結果になった原因は、悪い偶然が重なり過ぎた事にあるのだ。そう考えないとどうしようもない。この痛みも。苦い舌触りも。ひどい空虚感も。
 (ひるまさん。ひるまさん、たすけて)救いのない状態だ。これからどうされるかくらいは、馬鹿のにだって予想はついていた。それだから悲しかった。
 声にならない声が、掠れた吐息に混じって漏れる。溜め息のようなもの。
 抵抗する間もなく肩に手がかかって、地面に横たえられた。無機質なコンクリートの感触がする。普段から人の立ち入らない場所なのか、味気ない冷たい風の匂い以外、何も感じない。ここは音のない場所だ。
 (殺してやるって、言ったけど)
 ぼんやりと、夜空を見上げる。蝙蝠が一羽狂ったように街路灯の下を飛び回っていた。
 (……いっそ本当にそうしてくれたら)
 いくら待てども助けは来ない。言い換えれば諦めろ、という事だ。
 そっと瞼を閉じると、暗闇が見えて来た。色らしい色がなかった。黒とも藍とも紅とも白とも言える薄暗い闇の洪水がそこにひしめいていた。
 絶望が緩い速度でを浸食し始めていた。外側からも内側からも同時進行で少しずつ体を食われて行っている。そんな感覚。
 「なるべく酷くしてやるよ」
 せいぜい泣きわめけ、と阿含。無表情のまま。突如肩にちりっとした痛みを感じて、ああ噛みつかれたと思った。
 雫が、音もなく頬を下って行った。










06.04.22
改06.08.20