がちゃりとノブの回される音がして、見ると阿含が欠伸をしつつ入って来る所だった。一昨日の晩に始まった長い長い外遊びから、今ようやっと帰宅したのだ。服の血ばんでいるのを見ると、どうも今回は女遊びの上に凱旋帰宅らしい。彼はいつもそうだ。敵を好きなようにのして、蹂躙して満足げに帰って来るのだ。
 喧嘩に負ける阿含、というのが私にはどうも想像出来ない。きっとそんな物が現実に存在しない所為だろう。そこだけは、不愉快な事に、確信があるのだ。

 「なにやってんだお前」

 フローリングに大の字で寝転がる私を見つけた時の阿含と言ったら、まるで珍獣にでも出くわしたような顔をしていた。でもすぐにいつもの事だと考え直したらしい。彼は赤錆色の染み込んだ裾を引きずりながら、落ち着いた足取りで近寄って来ると、空き缶でも転がすように私の脇腹を蹴った。続けざまに幾度も蹴った。

 「痛い、なにすんの」

 私は呻きながら、足を避けようと半分寝返りを打った。
 女を足蹴にするとは何事だと叱りつけてやろうかとも思ったが、相手が年下だろうが女だろうが容赦なく殴る男だったのを思い出して、結局途中で口を噤んでしまった。
 そもそも彼は忠告というものを聞き入れる人種ではない。言うだけ無駄なのだ。

 「邪魔。つーかパンツ見える」

 硬い爪先が今度は肘を突く。地味に痛い。
 私が寝ているのはリビングの小スペースだし、迂回出来るのだから本当は邪魔でもないくせに、自分が何か構ってほしい時はこうして好き勝手、はた迷惑なちょっかいをかける。子供なやつだなぁと思う。勿論声には出さない。
 この間はうっかり口を滑らせてサバ折りにされたし、となると、今度こそは首をへし折られてこの世のあちら側を見るに違いないからだ。川渡るかお前、という阿含の本気の言葉は今でも鮮明に覚えている。寒気がするくらい鮮明に。

 「見えないよ、スパッツ履いてるし」
 「脱がせば」
 「そりゃあ見えるだろうけど、って脱がすな。刺すよ」
 「なに、今更照れたりとかしてんの。気持ち悪ー」
 「うざい上にむかつくなおま……うわっ、ほんとに触るなよ!」

 まだ口論の最中だというのに足首に手がかかったので、私は慌てて抵抗した。
 何せこの男だ。普通の高校生男児が冗談で済ますか、実行を躊躇する行為も平気で実行しかねない。もしかすると想像以上にとんでもない事をやってくれるかもしれないし、それに、そんな不吉な予想は大概当たると相場が決まっている―――


 「ありえねー。マジでスパッツかよ」

 取り上げた私の片足を上向き四十五度の角度に持ち上げて、がっかりしたと言わんばかりに阿含は眉を歪めた。見ようによっては大変な構図だ。

 私は慌ててわあわあ悲鳴を上げて、体を一杯に捩らせ、渾身の力でジタバタした。それで開けっぴろげになったスカートがどうにかなるわけではなかったが、かと言って何もしないでいるには、その格好はあまりにも恥ずかし過ぎた。

 「え、え、駅員さん、この人痴漢…痴漢です!」
 「安心しろ。黒スパッツじゃ足開かれてもモチベーション上がんねえし」
 「そりゃあそれであんまりだ……」

 顔に手をあててさめざめと泣く真似をしてみせると、阿含は機嫌良さそうににやにやして、尊大な口調をもってして「馬鹿が」と言った。
 実際泣きたい気持ちは山々なのだが、もうここまで来ると何でも良いと思えてくるから不思議だ。悟りの境地と言うやつなのかもしれない。随分な悟りに達したものだと思う。
 恨みを込めてじとりと睨みつけると、阿含はおや、と言った具合にわざとらしく肩を竦めた。余裕な素振りにまた腹が立つ。

 「別に良いだろ。雲子いなくて寂しいんだよ、ちょっと構え」
 「オニイチャンの代わりかよ……あーあこのブラコン本当救えねえ」
 「誰がブラコンだ」
 「ちょっ、あああ阿含、足抜けるー!!」

 攻撃対象が半泣きになって嫌がりだすと、それ以上は面倒臭くなったと見えて阿含も小さく舌打ちした限り、その後追撃を続けようとはしなかった。軟弱な関節だの色気がないだの、彼の呟いた不快な言葉は全て聞かなかった事にする。
 これからはいつでも反応出来る姿勢でいようと固く心に誓って私はのろのろと体を起こした。引き攣れた脚の筋肉に、痺れと痛みが生まれた。阿含はとにかく力の加減が適当過ぎる。調節しようにも出来ないのか、もしかすると調節する気もないのかもしれない。


「あー早く雲水帰って来ねえかな」


 こいつ、本当に兄貴の事しか考えてないみたいだ。
 握られた足首が、特に長い事痛んだ。