あいつは話があるとか何とか言いながら、扇風機の前で涼んでいた俺の前によっこらせと座った。クーラーは壊れている。扇風機は一台だ。おかげで風が来ない。顔が熱い。退いてくれと言いたかったがあいつがあんまりにも真剣な顔をしているので何となく言い出せなかった。昔からこんなふうに間は悪いが要領の良い女なんだ、あいつは。
「雲水くん。ちょっと聞いてくれたまえよ」
と、やつが言う。目線は直進。声は重たい。
俺が逃げ出さないように、全身からピリピリした空気を発して拙い威嚇の構えをとっている。どうやら珍しく本気のようだ。暫く付き合ってやる事にする。
だけど何にしろ茶番に過ぎないのだから、早く終わればいいと思う。
「なんだ、文句か」
「違います」
堅い切り返し。でもこういう大真面目を装っている時の彼女が馬鹿な事しか言わないのを俺は知っているから、その後に続く言葉がどれだけふざけていても、神経を逆撫でするものであっても動揺を誘おうとするものであっても、今更どうとも思わない。ただ少し殴ってやりたいと思うだけだ。でもしない。
こいつと阿含の扱い難さは似ている。その性質が違うだけで、どっちも自己中心的だしわがままだ。
近頃は大分やつらへの対応にも慣れた。他人の、しかも同年代の扱いに慣れが生まれるっていうのも何か変な話だ。自分が計算高いようで空恐ろしいし、人間的に良い事じゃない。あまり嬉しくない。
「回りくどいの嫌いだからそういうのなしで言うけどさあ」
そういってやつは顔を寄せる。石鹸の香りがする。さっきから風呂を占領していたのは、阿含かと思えばこいつだったらしい。
とんだ女だ。勝手にシャワーは使うなといつも言っているのに、水道代は今度払うとか言って聞かない。俺が言って聞かせてるのはそういう問題じゃないのに、まるで分かろうとしない。馬鹿なのかもしれない。
また説教が口を突いて出そうになるのを堪えて、俺は一先ず彼女の言葉を聞く側に徹した。今は叱るとかそういう空気じゃあなさそうだった。
「私雲水がちょう好き! です、よ!」
その時までに最悪の事態―――風呂壊したごめん、とか言い出すあいつの顔―――を想定していた俺は彼女の力のこもった言葉を聞いてひどく安心した。
そらみろ、やっぱりいつもの馬鹿話だった。
「そうか」
「ウワァ…た、淡白! もうちょっと反応しようよ、ねえねえ」
「どうせ冗談だろ?」
笑ってやると、案の定、やつは苦悩に顔を歪めて額を押さえる。
このニブチンが!と毒づかれるも聞こえないふりをする。
そんなのは余計なお世話だ。少なくともお前に言われることじゃない。
「だめ、その切り返しだめ。お前ね、そんなだから彼女の一人も出来ないんだよ。阿含を見ろ。隙あらば触ろう連れ込もうってあの態度。あの猫かぶり。あのふてぶてしさ!」
「まあ……確かに太いな。あの毛束」
「毛束じゃない。ドレッドって言うの、今時は。だめだなぁ本当、色恋だけじゃなくて横文字にも疎いの?この坊主」
随分失礼な事をずけずけ言いながら、やつが肘で小突いて来る。筋肉の上からでも地味に痛い。やつの体は骨と皮で出来ているらしい。もっと肉を食え、肉を。
ストライキ精神に似た気持ちで反応を返さずに沈黙していると、「武士なら据え膳食えよ!」とのブーイングを受けた。俺は武士じゃない。
「むーかーつーくーなーこの生臭坊主!ヘタレ!」
「坊主は俺の個性だから良いだろう、別に」
「いや良いっていうか。むしろその坊主が好きなんだけど」
「そうか。ありがとう」
「だから淡々とし過ぎだって……え?いやちょっと待て、今雲水ありがとうって」
「言ったぞ。ありがとう」
「ワオ! それ承諾!? 私の気持ち快諾してくれたとか、そういうアレかぁ!」
「……お前、人生で苦労って味わった事ないだろ。阿含と別の意味で」
「難攻不落の雲水君を落とそうと今まさに死ぬほど苦労してるんでーすがー」
「しなくていい」
「そんなの私の自由でえす」
そう言って、にやにや笑って俺の肩に頬を擦り付ける。猫みたいなやつだ。
いっそ猫と同じに生意気でも良いから、ろくに意思も言葉も通じない、人よりずっと小さな生き物に生まれてくれれば良かったのに、あいつは人間で女だ。俺も人間で高校生だ。思慮分別だけでどうにかならない有り余った部分があるから困る。
「暇があるなら勉強でもしなさい」
「母親じゃあるまいし、そんな…」
「俺はお前の母親ぐらいの位置にいたいんだよ」
「それって体よくフられたって事じゃんかー…クソ坊主……」
「あと一年くらいはそのポジションだな」
「え、じゃあ一年後は…?」
「お前の父さんくらいになってみたいと思う」
「ああ、ハズバンドか。夫だね。弟抜きのめくるめく幸せ家族計画!」
「そっちじゃない」
「んー…ま、今はお父さんでもいいよ。背中流しっこの特権つきだからね」
「……その年で同じ風呂は入らないぞ」
「ハァ、なんで!?」
女である前にもうちょっと人類である自覚を持ってほしいと思う、こいつには。
(更に一年したら友達以上恋人未満くらいにはしてやってもいいとか思ってる)
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