「阿含おはよう!死ね!」

 にっこにこにこ。弾けるような笑顔で少女が言う。
 視界に目当ての人影を認めたその瞬間、彼女の肘は大きく後ろへ引かれ、腰の捻りと共に腕がぶんと音を立てて振り抜かれた。素早い。投球の動作だ。
 前置きのモーションがない上に容赦も遠慮もない、が、そこに大した威力はない。
 「朝っぱらからテンション高ぇな。ていうか失礼だし。なに?」
 ソファに寝そべった姿勢で、飛んで来た英英辞典を片手で難なく受け止めて、阿含が聞き返す。
 止められるのも予想の範囲内だったらしい、少女は別段悔しがりもしない。
 ただ先程の取って付けたような笑顔とは打って変わって、今はひどく立腹した様子の仏頂面だ。本性が出たな、と阿含は思う。怒りを隠しきれないようだ。

 「単刀直入に言おう、私の財布の一万円がなくなった」
 仏像のように目を細めて、しかし険悪な形相で少女が吐き捨てた。
 阿含は動じない。軽く目を擦って、むくりと起き上がる。かけられた疑念にまるで覚えがないからだ。いや、たとえ覚えがあったとしても反応は変わらなかっただろう。彼女の財布の事情など、阿含の知った事じゃあないのだ。
 「へえ。それで」
 一応聞き返してはみたが、返って来る言葉は大体予測がついていた。
 おまえがとったんだろうとか、しらばくれるな、とかそんな所だ。


 「それでって―――あんたがとったんだろうに白々しい!」


 ほらみろ。阿含はげんなりする。


 「決めつけてんじゃねえよ。誰がそんなみみっちい金とるか」
 「とるだろうよ。阿含、狡いもん」
 「あー?もっぺん言ってみろ」
 「何度でも言いますよォ、あごんこすいもーん」

 少女がにやにやする。
 狡い、という言葉を阿含がよく侮辱に用いるのを知って、この罵倒だ。
 大変腹が立ったが、手は出さない。家で乱闘はまずいしそういう気分でもない。

 「死ねカス女」
 「あんたが死ねアホドレッド」
 「クソ女」
 「女人に向かってクソはないだろうよ。やるか能無しドレッド」
 「ヤってもいいけど、明日辛いのそっちだろ?三流高校女」
 「な……」

 言いかけて、少女はしかし息を飲んだ。
 言葉に詰まった顔だ。差し向けられた言葉を咀嚼しようとするうちにその卑俗な意味にぶち当たって、何だかばつが悪くなった、そんな顔。下品な単語はいくらでもぶちまけられる割に、彼女はこういうやり取りにてんで不慣れなのだ。

 「……あんたって最低だよエロドレッド。この下ネタ製造機」
 「そっちからヤりたいっつったんだろ万年処女」

 今度は阿含がにやにやする番だ。
 軽口への怒りからか、単純に図星だったのか、少女は少し顔を赤らめて目をむいた。

 「処…かどうか…なんて……そ、そんなの分かんないじゃんバーカバーカ!」
 「見りゃ分かんだよ」
 「うそ、うそだ。粗チン野郎の言葉なんか信じません」
 「ハ、見たわけでもねえくせに」
 「見たかもよー!」
 「標準なんかどうせ知らねえくせに」
 「知ってるかもよー!」
 「男と寝た事ねえんだろお前!」
 「あるもん、ちっちゃい雲水と!」
 「それは数に入らねえんだよマジボケすんな!」

 埒が明かない。
 声を張り上げるから、だんだんどちらも疲労が溜まって来る。
 二人とも喉を使うのが馬鹿らしいと悟ってからは長い事言葉もなしに睨み合ったが、それにも疲れて、とうとう目を合わせるのをやめた。


 (……阿含なんか死ねばいいのに)
 (……このバカ死ねばいいのに)


 嫌な沈黙が流れる。怒鳴り合いよりもっと面倒な静けさだ。
 肩幅一つ分の距離を置いて、少女が阿含の横に座った。腰を下ろすというよりは、背中から倒れ込むような勢いだった。ソファが僅かに揺れた。
 まだ目は合わない。阿含は怒っている。彼女の眉間にも皺が寄っている。

 「……クソが。お前一生処女でいろ」
 「なんで阿含にそんな事決められなきゃいけないんですかー」
 「言われなきゃ分かんねえのかバカ。犯すぞ」
 「分かりません。あと犯さないでください」
 「アホだな」
 「うるさいよ、カスドレッド!」
 「俺がカスなら世の中全員カス以下だ、貧乳チビ!」
 「貧しくありませんチビだけど!阿含のうんこ!」

 再び戦いが激化の気配を醸し始める。どちらともなく目が合って、またどちらともなくガンの飛ばし合い。まさに一触即発の危機。
 そこへ救世主が差し向けられた。坊主頭の救世主が。

 「……おい、女の子が普通にうんことか言うもんじゃないぞ」
 「わあ、雲水おはよう! むしろ結婚して!」
 「噛み合ってねえぞ」
 「黙れメドゥーサ」
 「双子の兄弟で扱いに差つけてんじゃねえよザコ!」
 「ドレッドは皿でも運んでればいいだろうよ、ペッ!」


 喚き合いは止まない。
 それどころか、騒々しさは度を増して行く。
 雲水はちょっと呆れたように目を見開いて、お前ら本当に仲良いんだな、と言った。
 罵詈雑言に賑わうリビングの中で、彼だけが穏やかだった。



 「しかし誕生日の朝ぐらいゆっくり寝かせてほしいんだが…」
 「やーそうか今日って誕生日だね! 生まれて来てくれてありがとう雲水!」
 「だからあからさまに差つけんじゃねえっつの」



 (ふたご、ハピバ!)